1.新聞発表
担当:5班(新井・齋間・小林)
2.輪読発表
(輪読)pp.205-234
・第三章 台湾で生きる⑴
幾重もの苦難⑴
失望
思想の左傾
台湾大学での活躍
私との再会
大陸旅行
H女史と
担当:6班(白鳥・中西・李)
![]() |
楊威理『ある台湾知識人の悲劇』(岩波書店 1993年) |
3.解説
輪読図書の著者・楊威理は、1946年12月に台湾を離れ、台湾政府の公費生として北京大学経済学部に入学した。このため、翌1947年2月に起こった二・二八事件については詳しく述べていない。一方、台湾に残った葉盛吉にとって、この事件が与えた思想上の影響は大なるものであったという。(pp.219-221)
では、二・二八事件とはどのような事件だったのか。当時、新聞記者をしていた作家・呉濁流の『夜明け前の台湾』(pp.205-225)を読んで考えてみよう。
![]() |
「まだ見ぬ息子へ~葉盛吉、日中のはざまで(下)」(NHK教育1994年9月5日放送) 最初-04:09 |
![]() |
呉濁流『夜明け前の台湾』(社会思想社 1972年) |
▼葉盛吉年譜
時代 | 西暦 | 年齢 | 出来事 |
日本植民地時代 | 1923 | 0 | 10月、葉盛吉、台北に生まれる |
台南県新営郡の叔父の養子となる | |||
1930 | 7 | 新営公学校に入学 | |
1936 | 13 | 台南一中に入学 | |
1937 | 14 | 7月、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争開始 | |
1938 | 15 |
4月、朝鮮で陸軍特別志願兵制度が導入される 台湾総督府が寺廟整理運動を開始 |
|
1939 | 16 | 日本へ修学旅行に行く | |
1940 | 17 |
台湾総督府が戸口規則の一部を改正し、改姓名許可制度を公布 7月、第二次近衛文麿内閣が基本国策要綱の中でアジアを白人帝国主義の支配から解放し,日本を盟主とする大東亜新秩序建設のスローガンを掲げる(「大東亜共栄圏」構想) |
|
1941 | 18 |
岡山の第六高等学校を受験するが不合格となる 4月、帰台 5月、台北帝大予科を受験するが不合格となる 6月、 9月、姓名変更願が許可され、葉山達雄と改名 このころ高円寺で中国人留学生から民族意識を鼓吹され、日台両立の「天地の公道」に悩む 10月、台湾総督府が世論の批判を受け、寺廟整理運動を中止 12月8日、日本が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争開始 |
|
1942 | 19 |
台湾で陸軍特別志願兵制度が導入される 岡山の第六高等学校を再度受験するが不合格となり、市ヶ谷の城北高等予備校に入る 12月、寺廟整理運動の経緯を記した『寺廟神の昇天』(宮崎直勝著、東都書籍)が出版される |
|
1943 | 20 |
朝鮮・台湾で海軍特別志願兵制度が導入される 仙台の第二高等学校理科乙類に入学 9月23日、台湾で徴兵制導入が発表される(実施は44年9月から) 10月1日、東條内閣が「在学徴集延期臨時特例」を公布、理工系と教員養成系を除く大学・高専の在学生の徴兵延期措置を撤廃(学徒出陣) 10月、明善寮一寮の庶務幹事に選出される 11月19日、明善寮一寮一年生の弁論大会で、「伝統ということについて」をテーマに、日本の統治者が台湾の伝統を踏みにじっていることを抽象的に批判 12月28日、台南一中の同窓生・林宗人が入隊したとの知らせを受ける |
|
1944 | 21 |
1月8日、台南一中の同窓生・郭朝三が海軍に入隊し、ラバウル方面に出征したとの知らせを受ける 3月、台湾にいる父親に海軍予備学生出願書類を送る 8月、宮城県船岡町の海軍第一火薬廠へ勤労奉仕に行く 9月、台湾で徴兵制実施(徴兵検査は45年1月から) |
|
1945 | 22 |
4月、東京帝国大学医学部に入学 8月、終戦 |
|
国民党統治時代 |
10月、陳儀ら国民党政府台湾接収委員が日本から施政権を引き継ぐ |
||
1946 | 23 |
1月、台湾人の友人と鬼怒川へ行く 2月、楊威理、帰台 4月、葉吉盛、帰台し、台湾大学医学部に転入 12月、楊威理、台湾を離れ、台湾政府の公費生として北京大学経済学部に入学 |
|
1947 | 24 |
2月、二・二八事件が起こる |