2022-05-27(金)第07回

最終更新: (更新者 鈴木 靖

1.いまを知る

 

  • 4班(武田・白鳥・玉井)

 

2.輪読発表

 

  • 第4章 台湾と満州の植民地化―1895~1945年(5班:中谷・田中・堀)

 

西暦

和暦

出来事
1894

明治

27

3月、甲午農民戦争勃発

8月、日清戦争開始

95 28

4月、日清講和条約(下関条約)締結。清、(1)韓国が独立国であること、(2)遼東半島、澎湖島、台湾の割譲、(3)賠償金2億両(約3億円)の支払いを承認。ただし、ロシア・ドイツ・フランスの勧告により、遼東半島は放棄(三国干渉)

98 31

3月、ロシアが遼東半島を租借

99 32

9月、ヘイ米国務長官、中国の門戸開放を提議(門戸開放・機会均等政策)

1900 33

6月、日本、義和団事件の鎮圧のため陸軍派遣を決定

03 36

4月、ロシア、満州撤兵を不履行

04 37

2月、日露戦争開始

8月、第一次日韓協約締結。日本、韓国に財政・外交顧問を置く

05 38

9月、日露講和条約(ポーツマス条約)締結。ロシア、日本の韓国に対する保護・監理、遼東半島の租借権、長春・旅順間の鉄道と沿線の炭鉱、南樺太の割譲を承認(賠償金はなし)

11月、第二次日韓協約締結。日本、韓国の外交権を奪い、韓国統監府を設置(初代統監は伊藤博文)

07 40

7月、第三次日韓協約締結。日本、統監権限を強化し、韓国軍隊を解散

09 42

10月、安重根、伊藤博文を暗殺

10 43

8月、「日韓併合に関する条約」により日本が韓国を領有

14

大正

3

7月、第一次世界大戦勃発

15 4

5月、日本、中国の袁世凱政権に二十一か条要求を受諾させる

19 8

3月、韓国で三・一独立運動が起こる

5月、中国で五・四運動が起こる

21 10

11月、ワシントン軍縮会議

28

昭和

3

6月、関東軍参謀河本大作の謀略により張作霖が爆殺される

31

6

9月、関東軍参謀板垣征四郎・石原莞爾らの謀略により満鉄線路を爆破(柳条湖事件)

32 7

5月、海軍青年将校らが犬養毅首相などを殺害(五・一五事件)大正デモクラシー以来続いてきた政党内閣制が終焉

36 11

2月、陸軍皇道派の青年将校らがクーデター未遂事件を起こす(二・二六事件)

37 12

7月、北京郊外で日中両軍が衝突(盧溝橋事件)

5月9日(二十一か条要求)、9月18日(柳条湖事変)、7月7日(盧溝橋事件)は国恥日

 

 

3.グループワーク

 

 日本は、日清戦争により台湾、日露戦争により朝鮮を植民地としました。これが今日の台湾問題や韓国との歴史問題の遠因となっています。

 中国や韓国の人から「日本人は、同じアジアの国々を植民地化することをどう考えていたのか」とたずねられた時、みなさんはどう答えますか。

 石橋湛山が1921年、『東洋経済新報』に発表した「一切を捨つるの覚悟」を読んで、どう答えるべきかを考えてみましょう。

 

石橋湛山 貫いた「小日本主義」
戦争と言論人 足跡を訪ねて(1)

 

日本經濟新聞2010年8月7日

 

石橋湛山(36歳 1920年頃).jpg

 

「社会を明朗ならしむる第一条件は言論の絶対自由だ」

 1933年(昭和8年)1月、石橋湛山は東洋経済新報の社説で共産党の検挙事件について、弾圧よりも大いに共産主義を語らせる言論の自由を認めるべきだと説いた。共産思想に誤った部分があるにしても、言論の自由があってはじめて人々はそれに気がつくのであって、弾圧によっては何も改善されないという。

 戦後、内閣総理大臣に就任したころ(1956年12月)湛山は他の社説でも言論の自由は「うっ積すべき社会の不満を排せつせしめ、その爆発を防ぐ唯一の安全弁」であるとし、様々な報道がなされることで国民の批判能力を養い、「見解を偏らしめず、均衡を得た世論」をつくると訴えた。
 「湛山の言う言論の自由とはすべての人にとっての自由。どんな過激な主張でも国民はそれを知ってから判断すべきだということ」と湛山が設立した社団法人「経済倶楽部」理事長、浅野純次さん(70)は言う。

 

植民地を棄てよ

 しかし、湛山が言論の絶対自由を訴えた33年に京大の滝川事件、35年には天皇機関説問題が起き、思想・言論の弾圧は過激思想どころか自由主義やごく常識的な学説にまで及んでいった。湛山は言論抑圧で国民の視野が狭まり、極端な方向に進むことを懸念した。
 それまでも「一切を棄つるの覚悟」(21年社説)で朝鮮、台湾、満州などの植民地、権益の放棄を主張。「大日本主義の幻想」(同)で軍事力による膨張主義を批判し、平和な貿易立国を目指す「小日本主義」を提唱した。そして「いかなる民族といえども、他民族の属国たるを愉快とするごとき事実は古来ほとんどない」と植民地の人々の心情に対する日本人の想像力の欠如も指摘した。
 湛山の母校、甲府第一高校の教諭だった山梨平和ミュージアム(石橋湛山記念館)理事長の浅川保さん(64)は「植民地を全部捨てろというのは当時の国策と百八十度違う過激な意見。でも、その後の日本の進む道を予見している。日本の近代史に残る名論文だと思う」と評価する。
 31年の満州事変を機に新聞の軍部批判は影を潜め、世論は戦時体制一色となった。その中で湛山は「国防線は日本海にて十分」「中国全国民を敵に回し、引いては世界列強を敵に回し、何の利益があるか」と孤高の論陣を張り続ける。ときには軍部を「ばい菌」とまで痛罵した。


現実の数字重視
「経済雑誌の伝統として現実のデータを重視するプラグマティズムがあった。最大の貿易相手の米国と戦うことの損失は湛山にとっては明らかなことだった」と東洋経済新報社社長の柴生田晴四さん(62)は話す。
 太平洋戦争が始まってからも自由主義の旗を降ろさない湛山と東洋経済新報は軍部ににらまれる。社内では軍部に協力しようとの声も上がったが、湛山は断固反対した。「伝統も主義も捨て、軍部に迎合し、ただ東洋経済新報の形だけ残しても無意味だ。そんな醜態を演じるなら、いっそ自爆して滅びた方がいい」
 湛山の孫で石橋湛山記念財団理事長の石橋省三さん(61)は、晩年の湛山の書斎の前の扉が厚い鉄板だったことを覚えている。襲撃に備えたもので、命懸けの言論活動の名残だった。
 日本国中が敗戦に打ちひしがれ、絶望していた45年8月、湛山は真骨頂ともいえる論説を書く。「更生日本の門出 前途は洋々たり」として、日本は科学精神に徹底し、世界平和の戦士として全力を尽くせば未来は明るいと見通した。
 省三さんは言う。「祖父は日本人の能力を信じていた。一方で、寄らば大樹で流されたことを反省し、自律した考えを持つことを求めていた」

 

石橋湛山(いしばし・たんざん1884~1973年)

 東京生まれ。新聞社を経て1911年に東洋経済新報に入社、のちに社長。自由貿易こそ日本を発展させるとして、武力による対外膨張政策を批判。植民をすべて放棄する「小日本主義」を唱えるなど、軍国主義に反対し続けた。
 戦後は第1次吉田茂内閣の蔵相に就任。47年に公職追放。解除後に鳩山一郎内閣の通産相を務める。56年12月に内閣総理大臣となるが、遊説中に倒れ、翌年2月に退任した。

 

参考資料
251 『世界現勢大地図』(東京日日新聞社 1936年).pdf 『世界現勢大地図』(東京日日新聞社 1936年)
「NHK人物録 石橋湛山」(NHKアーカイブス)
石橋湛山「大日本主義の幻想」(『東洋経済新報』大正10年7月30日・8月6日・13日号より).pdf
石橋湛山「一切を捨つるの覚悟」(東洋経済新報1921年7月23日社説抜粋)