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江戸後期から幕末期の侵略思想
日本の大陸侵略思想の源流を辿るとすれば、江戸後期に『三国通覧図説』(1785年)や『海国兵談』(1791年)を著した林子平(1738〜93)と、『西域物語』(1798年)や『経世秘策』(同上)を著した本多利明(1744〜1821)に行き当たる。だが、林子平が南下政策を進めるロシアの脅威と隣国の巨大国家中国の潜在的脅威への対抗から海防論を主張し、本多利明が中国・朝鮮に限定されないアジア全域を視野に入れた貿易立国論を説いた点で両者の相違は明らかであった。
ただ、林子平が朝鮮を国防上の観点から、蝦夷や琉球と並んで朝鮮を緊要の地と位置づけた意味は決して小さくない。つまり、林子平はロシアの脅威への対抗から朝鮮を領有する必要性を説いた恐らく最初の人物となったのである。
本多利明は経済的自立への道を説き、非軍事的手段による日本の発展を志向する。経済的自立の基盤として海洋を利用し、東南アジア地域をも含めたアジアの地に日本の発展の基盤を求めることを強調したのである。それは明治初期から登場する「南進論」の萌芽ともいうべきものであった。その意味からすれば、林子平の軍事主義的なロシア脅威論と朝鮮領有論こそ、明治初期から中期にかけて華々しく展開される大陸侵略思想の源流と言えよう。そして、本多利明の議論は海軍の軍事官僚を中心に主張される「南進論」の出発点をなすものであった。
林子平が鎖国の不利益を鋭く指摘し、鎖国政策の見直しと国防思想の普及を第一の目的とした限り、一種の開明思想の部類に入るものされてきた。その一方で、後の天皇制支配原理に潜在するような日本民族優越主義を基底に据えつつ、極めて鮮明な侵略主義を展開し、天皇制の支配原理に孕まれていく侵略思想を率直に語った思想家として佐藤信淵(のぶひろ1769〜1850)がいる。すなわち、佐藤信淵は『混同秘策』(1818年)のなかで、「皇大御国(すめらおおみくに)は、大地の最初に成れる国として世界万国の根本なり」と記し、日本が世界の中心国であり世界の全ての地域は「皇大御国」天皇制国家日本に従属し、天皇こそ唯一の支配者であるとする強烈な自民族至上主義を思想形成の出発点としていた。
続けて、天皇制国家日本に最初に従属すべき地域は中国であり、まずその手始めに「支那国の満州より取り易きはなし」と中国東北部(満州地域)の「奪取」を提言する。もっとも佐藤信淵の長期的国家戦略は、中国東北部を日本が「奪取」することで、ロシアの脅威から解放されてから後、日本の国力増進のための経済的適地として東南アジアへの「南進」を説くものであった。ロシア脅威という危機設定のなかで、中国の「奪取」が天皇制国家の支配原理に合致するものとの認識をしていた点で、後の日本陸軍の満州占領計画の動機づけと酷似する。事実、1920年代後半から30年代初頭にかけて、軍部や右翼らを中心とする大陸侵略行動の画策のなかで、この佐藤信淵の侵略思想が繰り返し借用されることになったのである。【出典】纐纈(こうけつ)厚「大陸侵略思想の構造と系譜」(情況第二期第11号 1994年12月)より
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標準世界史地図 40 十八世紀のアジア(清) |
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纐纈厚「大陸侵略思想の構造と系譜」(情況第2期第11号 1994年12月) | |
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林子平『三国通覧図説』(天明6[1786]) | |
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林子平『海国兵談』(1791年(寛政3年)刊)巻16 | |
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佐藤信淵『混同秘策』(1818年) | |
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吉田松陰『幽囚録』(1868年(慶応4年)刊) |