時刻 | 活動内容 |
07:50 | 沖縄県立糸満青少年の家の食堂で朝食 |
08:40? | タクシーに分乗して那覇泊埠頭へ |
09:20? | 那覇泊埠頭旅客ターミナル「とまりん」に到着 |
10:00 | 泊埠頭からフェリーで渡嘉敷島へ。途中、台風による南からの高波を避けるため、航路を第二基準航路に変更。船酔いで多くの人がダウン。 |
11:20 | ①渡嘉敷港に到着。港に吉川嘉勝先生が出迎えに来てくださる |
12:00 | 埠頭前の売店の2階の食堂で昼食 |
13:00 | レンタカー3台に分乗し、島内の戦跡巡りへ。米田班は埠頭の売店前で取材のリハーサル。 |
13:50 | 米田班、港のすぐ近くにある②米田光子さん(1928年(昭和3年)生)の家を訪ね、周辺のようすを撮影した後、取材開始 |
15:15 | 取材の途中、鈴木はレンタカーを返却に来た永井さんと吉田くんを送るため、国立沖縄青少年交流の家へ |
16:00 | 米田班、取材終了。レンタカーで③渡嘉志久ビーチを回り、国立沖縄青少年交流の家へ |
17:00 | 米田班、国立沖縄青少年交流の家に到着。宿泊はすばる棟2階 |
18:00 | 嵐の中、レストランちゅらうみへ。夕食は6時に予定されていたが、午後のフェリーが欠航となったので、間違ってキャンセルされてしまっていた。このため、20分ほど遅れて食事開始。職員の方がお詫びにとジュースを差し入れてくれた |
21:00 | 管理研修棟で勉強会(四年生の金子さんと小林くんが卒業研究の中間発表)鈴木が部屋で居眠りをして遅刻したため、開始時刻が20分ほど遅れる(ゴメンナサイ) |
23:10 | 勉強会を終了し、すばる棟に戻って就寝 |
2013-09-02(月)①渡嘉敷港(中央は吉川嘉勝先生)
2013-09-02(月)②米田光子さん宅
2013-09-02(月)③渡嘉志久ビーチ
米田光子さん(1928年~)の証言
強制された死「軍命」削除検定のはざまで(3) 渡嘉敷村渡嘉敷
軍が「集まれ」/直後惨劇
渡嘉敷村渡嘉敷の北(にし)山にあるカーシーガーラ上流。谷底の斜面には木々がうっそうと生い茂っている。林の中は薄暗くひんやりとした空気が流れ、周囲は静寂に包まれている。沖縄戦で多くの住民が命を落とした「集団自決」の現場だ。
「ここにはあまり来たくない」。案内してくれた米田光子さん(七八)=同村渡嘉敷=は「集団自決跡地」の石碑が立つ現場に着くと、緊張した表情を浮かべた。
1945年3月27日、米軍は猛烈な爆撃後、渡嘉敷島に上陸した。翌日、事件が起きた。
当時16歳の米田さんと家族は渡嘉敷集落の住民が避難していたウンナガーラの避難小屋にいた。米軍上陸の27日、阿波連集落の住民が移動するのに出会い「軍が一カ所に集まれと言っている」と言われた。島中の住民が日本軍本部近くの北山のカーシーガーラ上流へと移動していた。米田さん家族もその日の夜、激しい 雨が降る中で北山を目指した。
米田さんらが到着した時、カーシーガーラ上流にはすでに数百人の住民が集まっていた。しばらくすると、男たちが両手を挙げて「天皇陛下万歳」と叫び始めた。「集団自決」がどこからともなく始まった。
ひとかたまりになっていた米田さんら家族十三人も後に続いた。家族が遺体になっても離れ離れにならないよう、父が家族の周囲を着物の帯で結ぶ。そして防衛隊の兄2人は手りゅう弾を爆発させ、父や兄ら五人は即死した。その後、死ねなかった住民がなたや銃剣、棒などでそれぞれ身内を殺し始めた。
人々の叫び声が聞こえる中、命を取り留めた米田さんは、近くで負傷していた母の腕を取った。「お母さん、逃げよう」と声を掛け、別の住民の後に続いた。すると、近くから自分たちに向けて叫ぶ女性の怒声が響いた。
「あんたたち日本人じゃないのか。逃げるのか」
米田さんは、女性を振り切るように谷を上った。結果的に家族で生き延びることができたのは米田さんと母の二人だけだった。
「今でも一人で寝ていると、玉砕のことを思い出す。でもあれを思い出したら頭がおかしくなるから、戦争のことは忘れて、子、孫たちの幸せだけを考えるようにしている」。米田さんは忘れることのできない62年前の出来事をできれば封印したいと思っている。
「あのとき、悲しみよりも、死ぬことができた父がうらやましいと思った。あんな教育だったから。でも孫、ひ孫たちには絶対にあんな思いをさせたくない」と話し、元気に笑うひ孫の写真を見せた。
(琉球新報2007年6月14日)