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映像 |
音声 |
効果音・BGM |
ナレーション |
①オ|プニング |
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国連総会で可決した時 |
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2017年7月7日、国連総会で核兵器禁止条約が122の国と地域の賛成多数により採択されました。しかし、ロシアやアメリカをはじめとする核保有国や、その抑止力に依存する日本、韓国などは参加しませんでした。 |
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2 |
原爆投下 |
24 |
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1945年8月、アジア・太平洋戦争の末期、広島・長崎に原子爆弾が投下されました。核兵器が人類に対して初めて使用された被害国として、日本は世界に知られることになります。 |
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3 |
平和記念公園 |
25 |
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広島平和記念公園。 毎年、原爆による死没者を弔い、世界の平和を祈る「平和記念式典」が開かれるこの公園には、原爆ドームや平和記念資料館など、原爆の悲惨さを伝える建物が並んでいます。 |
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4 |
韓国人原爆犠牲者慰霊碑 |
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その近くに、訪れる人がほとんどいないもう一つの慰霊碑があります。韓国人原爆犠牲者慰霊碑です。 |
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20世紀初頭の朝鮮半島 |
21 |
1910年、韓国併合により、急速な近代化政策が推し進められると、土地調査事業で生活基盤を失った人々や、労働力不足を補うために徴用された人々が、日本本土に渡りました。 |
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6 |
原爆投下後のヒロシマの映像 |
33 |
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1944年に内務省警保局が行った調査によれば、当時広島や長崎に暮らしていた朝鮮半島出身者はあわせて14万人。原爆投下により、このうちの7万人が被爆したといわれています。広島・長崎の被爆者の総数は約69万人。実に被爆者の10人に1人が朝鮮半島出身者でした。 |
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7 |
広島記念公園の日本国旗 |
19 |
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1950年代に入り、日本国内では被爆者への医療支援が始まります。しかし、朝鮮半島にもどった約2万3千人の被爆者には、支援の手が差し伸べられることはありませんでした。 |
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8 |
国会 |
24 |
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「同じ被爆者なのになぜ?」 韓国の被爆者たちは原爆の後遺症に苦しみながらも、平等な支援を求めて立ち上がります。 今も韓国に生きる被爆者たち。その73年の歩みを振り返ります。 |
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②タイトル |
1 |
タイトル「韓国のヒロシマ・ハプチョンからの想い〜日韓間で揺れた在韓被爆者〜」 |
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③ハプチョンへの行程 |
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飛行機 |
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韓国に暮らす被爆者たちは、戦後どのように生きてきたのでしょうか。その声を聞くため、私たちは今年10月、韓国へ向かいました。 |
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大邱空港の外観 |
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韓国第三の都市・大邱(テグ)。 |
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3 |
バスからの風景
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8 |
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ここからバスで1時間半ほど行ったところに、人口5万人ほどの小さな町があります。 |
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ハプチョンの風景 |
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被爆者が最も多く暮らすことから「韓国のヒロシマ」とも呼ばれる陝川(ハプチョン)です。 |
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5 |
シムさんの出迎え
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27 |
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私たちはバスを降り、歩いて10分ほどのところにある原爆被害者福祉会館へ向かいました。 (シムさんの登場にあわせて) 私たちを出迎えてくれたのは、韓国原爆被害者協会のハプチョン支部会長を務めているシム・ジンテさん。シムさん自身も2歳のころに広島で被爆しました。 |
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6 |
原爆被害者福祉会館 |
13 |
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ここは原爆の後遺症に苦しむ人々が、医療支援を受けながら生活することのできる福祉施設で、現在被爆一世を含む101名が暮らしています。 |
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7 |
慰霊閣の外観 |
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施設の裏に建つ慰霊閣。ここには亡くなったハプチョン出身の被爆者の霊が祀られています。 |
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8 |
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8 |
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この日、私たちはこの施設に暮らす4人の被爆者からお話を伺うことが出来ました。 |
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④原爆投下前の広島と朝鮮半島出身者の暮らし |
1 |
キムさん インタビュー |
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キム・イルジョさん、90歳。 キムさんは京都で生まれ、2歳の時に商売を営む両親とともに広島に移りました。
【キム・イルジョさん】 「広島に来てからずっと商売したんですよ。(朝早く十日市へ行ってまた品物持ってきて売ったりね、)韓国人相手に。やっぱり三菱製造所があるから、あそこに韓国人がたくさん暮らしていたんです。その当時ね。」 |
2 |
音声なしで映像のみ |
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軍事都市であった広島には、三菱重工業など多くの軍需工場がありました。長引く戦争で働き手を失った工場には、出稼ぎや徴用によって朝鮮半島から渡ってきた多くの人々が暮らしていました。 |
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3 |
キムさんインタビュー映像 |
9 |
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ときに子供同士の喧嘩はあったものの、日本人と朝鮮の人々は仲良く、平和に暮らしていたといいます。
【キム・イルジョさん】 「喧嘩して「朝鮮人のくせに!」何かそんなことがあったら、大きい子供たちが来て怒る。「どうして朝鮮人はここへきて暮らしているんだ!」と言ったら、子供たちは逃げてしまう。そういうのは何回も見ましたけどね。日本の人は差別をしたり、いやなことをいう人はいなかった。」 |
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⑤原爆投下の惨状 |
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投下後の焼け野原 |
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しかし、そんな広島の町も一瞬にして廃墟と化してしまいました。1945年8月6日、原爆が投下されたのです。 |
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アンさんインタビュー映像 |
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アン・ウォルソンさん、88歳。当時15歳だったアンさんは、原爆が投下された時のようすを、いまも鮮明に記憶しているといいます。
【アン・ウォルソンさん】 「私と家族9人じゃったけど、その年の昭和20年1月26日に生まれた妹がおりました。その妹はその日に家潰れる時そこで下敷きになってその日に亡くなったし、ほいでお父さんとお母さんは私を探した後に全部病気になった。うちのお父さんは血を吐き出したり、便をしたら全部血が出して、ほいで薬はないし・・・・・」 |
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⑥日本の降伏と韓国への帰国 |
1 |
降伏文書調印式の映像 ↓ 韓国解放 |
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原爆投下からわずか9日後の8月15日、戦争は終わりました。日本の「ポツダム宣言」受諾により、朝鮮半島は36年に及ぶ植民地支配から解放されます。しかしその歓喜の裏で、被爆者たちの苦闘は続いていました。 |
2 |
イさんの帰国エピソード (映像追加・変更) |
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イ・スヨンさん90歳。イさんは7歳の時に母に連れられ広島へ渡りました。17歳の時、勤務先の広島貯金局で被爆したイさんは、爆風で足に傷を負ったまま、韓国に帰国した時のようすをこう語ります。
【イ・スヨンさん】 「私が「お母さん」と言うて行ったら、お母さんが、(私が)幽霊のようにして行ったから血だらけになって、だからわからないの。自分の娘だけどわからなくなって、目が(を)まんまるくして(私を)見つめているだけ。私は涙を流しながら「お母さんお母さん」言うたら、お母さんが気がついたそうね。「あぁお前が生きていたんか」と言うて。そこで私のお兄さんが「韓国に帰る」と、「日本にいたらアメリカ人が来て女性は全部連れてくからだめだ、韓国に帰んなさい」と言うて、闇の船に乗って帰ったんですよ。」 |
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3 |
イさんの足 |
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こうしてイさんは韓国に帰国しました。爆風で傷を負った足は、原爆の後遺症のためか、いまも腫れたままだといいます。 |
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⑦ |
1 |
朝鮮戦争 |
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終戦から5年後、朝鮮半島ではまた新たな戦争が始まります。東西両陣営の最初の代理戦争となった朝鮮戦争です。3年に及んだ戦争とその後の冷戦の中で、被爆者たちは必要な治療や支援も受けられないまま放置されることになります。 |
⑧原爆二法の制定と韓国被爆者 |
1 |
被爆者健康手帳 |
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一方、日本国内では1957年に「原爆医療法」が制定され、被爆者であることが認定されれば、「被爆者健康手帳」が交付され、国の負担で健康診断と原爆症の治療が受けられるようになりました。 |
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国会
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終戦から20年後の1965年、日本と韓国との国交正常化が実現します。その際に結ばれた「日韓請求権協定」によって「両国及びその国民の間の請求権に関する問題」は「完全かつ最終的に解決されたこと」が確認されました。 |
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3 |
原爆死没者慰霊碑映像 (トンネルみたいなやつ) (映像追加・変更) |
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しかし、この交渉の中で、韓国の被爆者への補償が議論されることはありませんでした。 「同じ被爆者なのになぜ放置されるのか」韓国の被爆者たちは、1967年、韓国原爆被害者協会を立ち上げ、日本政府に日本人被爆者と同等の支援を行うよう求めます。 |
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4 |
夜空と月 (映像追加・変更) |
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1968年、日本国内ではさらに被爆者の生活を支援するための手当支給を定めた「原爆特別措置法」が制定されます。 しかし、「原爆医療法」と「原爆特別措置法」はともに居住の本拠地が日本国内であることが前提とされていたため、韓国の被爆者が「被爆者手帳」を受け、医療費の支援や生活費の手当を受けることはできませんでした。 |
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⑨ソン・ジンドウ裁判 |
1 |
ソン・ジンドゥ(孫振斗)さんの写真 (映像追加・変更) |
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そうした中、なんとかして「被爆者手帳」を受けようと日本に渡った被爆者がいます。ソン・ジンドゥ(孫振斗)さんです。 日本に生まれ、韓国語もほとんどできなかったソンさんは、戦後も日本に暮らしていました。ところが朝鮮戦争さなかの1951年、ソンさんは韓国に強制送還されてしまいます。原爆の後遺症に苦しむソンさんは、治療を受けるため、やむをえず密航という形で日本に戻ります。 |
2 |
旧福岡県庁舎 (映像追加・変更) |
20 |
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しかし、福岡県に出されたソンさんの申請は却下されてしまいました。困ったソンさんは、1972年、福岡県と厚生省を相手取り、「被爆者手帳」の申請却下の取り消しを求める訴訟を起こします。 |
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3 |
最高裁判所の写真 |
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1978年、最高裁はソンさんの訴えを認める判決を下します。「『原爆医療法』は、被爆による健康上の障害の特異性と重大性のゆえに、その救済について内外人を区別すべきではない」との判断を示したのです。 |
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⑩医療支援金
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1 |
日韓の国旗映像 (映像追加・変更) |
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1980年代の末、韓国の民主化が進むと、被爆者問題もようやく日韓両政府の外交課題として取り上げられるようになります。 1990年5月24日に行われた日韓首脳会談で、日本政府は韓国の被爆者に対して医療支援金40億円を拠出することに決めました。 |
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福祉会館の内部の映像 SUB (映像追加・変更) |
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この資金をもとに1996年、原爆の後遺症と貧困に苦しむ被爆者を支援するための福祉施設が開設されます。それがこのハプチョン(陜川)原爆被害者福祉会館です。 |
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⑪カク・キフン裁判 |
1 |
カク・キフン(郭貴勲)さん写真 (映像追加・変更) |
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①しかし、韓国の被爆者が日本国内の被爆者と同等の支援を受けることはできませんでした。 ②ソン・ジンドゥさんの裁判により「被爆者手帳」を受けることはできるようになったものの、1974年に厚生省が都道府県知事と広島、長崎両市長あてに出した「402号通達」により、「旧原爆特別措置法に基づく健康管理手当は海外に居住した場合に受給権を失う」ことが規定されていたからです。 ③韓国の被爆者を排除するようなこの規定に対し、新たな訴訟が起こります。訴えを起こしたのは、学徒動員で徴兵され、21歳の時に広島で被爆したカクキフン(郭貴勲)さんでした。 |
2 |
木漏れ日映像 (映像追加・変更) |
44 |
字幕追加 |
①2002年、大阪高裁は「被爆者はどこにいても被爆者」というカクさんの訴えを認める判決を下します。その後、国が上告を断念したことで、この判決が確定します。 ②この判決により2003年には「402号通達」が廃止となり、2008年には韓国での「被爆者手帳」の交付が可能になりました。そして2015年には遂に韓国に居住する被爆者にも日本国内の被爆者と同じく医療費の全額支給が認められたのです。 |
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⑫シム・ジンテさんインタビュー |
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原爆資料館の外観
資料館の中の写真
皆がシムさんの話を聞いている姿
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2017年8月6日、シム・ジンテさんは宿願であった韓国初の原爆資料館をオープンさせます。 この資料館にはハプチョン(陜川)在住の被爆者の証言や被爆者の持ち物、韓国の被爆者の歴史を紹介した年表などが展示されています。
【シム・ジンテさん】 「次の世代には希望を抱いてます。(中略)どんな希望かというと、韓国には人的、物的支援をしてくださる組織が約24団体あります。(中略)こうした組織がこれからも続いていけば、私たちが死んだ後も、(被爆者のことが)無視されたり、放置されることはないはずです。(中略、そのためにも)私たち生き残った者は証言を書き残さなければなりません。しかし日本統治時代、私たちは(韓国語を)学ぶことができませんでした。約90%はハングルが分かりません。話すことはできても文字にすることができない。文字で遺産を残さなければならないのに。それが一番残念だとみんな思っています」 |
2 |
並木道 (映像追加・変更) |
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「唯一の被爆国、日本」という言葉があります。しかし、原爆のキノコ雲の下には、それまでともに暮らしていた7万人もの朝鮮半島の出身者がいたのです。 韓国に暮らす被爆者たちは、戦後70年を経て、いまようやく日本の被爆者たちと同等の支援を受けることができるようになりました。 シムさんは最後にこれからの希望について語ってくれました。 |
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シムさん インタビュー
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【シム・ジンテさん】 「これからは私たちがともに世界、そして未来を平和なものにしなくてはなりません。戦争のない国を考えるとき、核兵器はその大きな障害となっています。核兵器がある限り、平和はないのです。世界が本当に平和になり、鳥のように日本へもアメリカへもいけるようになる。そんな自由な世界を作らなければなりません。」 |
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⑬まとめ |
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ジンテさんたちとの写真 ズームアウト (映像追加・変更) |
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昨年、国連では核兵器禁止条約が採択されましたが、世界にはいまも1万5千基近くの核兵器が存在します。 核兵器が国境を越え、いかに多くの人々を、いかに長く苦しめるか。韓国の被爆者たちはその思いを世界の人々、そして未来の人々へと伝えようとしています。 |
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⑭エンドロール |
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エンドロールか話す |
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被爆者のみなさんのお話をうかがっているうちに、私たちも思わず涙してしまいました。核兵器が使用された場合、人はどんな苦しみを味わうのか。被爆した韓国の人々に私たちはどう向き合ってきたのか。ふだん想像すらしたことのないこれらの問題について、いま改めて考えようと思います。 |