キム・イルチョさんインタビュー
女性、被爆当時18歳新妻、三菱造船所で働く夫を送り出した後、家で皿洗いしてたら被爆、原爆症により胃癌発症、夫も57歳で亡くなり当時1歳だった息子も死亡
アニョハセヨ
皆さんの訪問ありがとうございます。私はここに住んでいるキム・イルチョと言います。日本の字でキム・イルチョという字がないからね。日本の人が私を呼ぶとき「キム・イルチョさん」と呼びます。日本の苗字は昔まつもときぬよですけど、韓国に帰ってからは自分の名前をそのまま言います、ずっと使っていますけどね。
この会館ができて、ここへ私が来たのは20年になります。私は日本生まれで、京都生まれです。2歳の時広島に来て終戦までそこでずっと暮らしました。うちのお父さんは身体が弱いからね、土方とか〇〇こい仕事よくできなくて、広島に来てからずっと商売したんですよ。どういう商売したかというと??? 明太?やら何やらね、わかめとかあんなのほじゅうどうぶつ?かも知らんものとかね、いろんな朝早く十日市へ行ってまた品物持ってきて売ったりね、韓国人相手に。やっぱり三菱製造所があるから、あそこに韓国人がたくさん暮らしていたんです、その当時ね。徴用で来た人もおるし、飯場というたらね、今韓国でははぞく?と言いますね。そこでご飯食べたり寝込んだりしてね。独身で来た自分は産まなきゃいけないからね、飯場もたくさんあったし。そういう風に韓国人がたくさん暮らしていました。そうして韓国人相手に、お金が無かったら週末に勘定をもらって、また払ったりしてね。そういう風に韓国人相手に商売よくできましてね。
昭和18年からそろそろね、もう配給時代になって、品物もだんだんなくなって。昭和19年になったらもう〇〇が、品物が来れないんです。そのときね、よくお金を起こして?
小さいご飯炊く木も配給したりね。なんでも配給しないものはない、そのときは。品物足りなくてね。そういう風に後からまた田舎行って持ってきたりね、みんな闇の商売してる人がたくさんおりました。その当時もそうだったけれどね。
私は2歳の時広島へ来て、結局原爆というのも形がたくさんありますからね。ああいう形こういう形いうて。人はみんな、立場が違うからね。一人一人聞いてみたら違います。
ここのおばあさんたちは広島の人です。長崎、これおばあさん1人おりましたけどね、あのおばあさんはもう亡くなりましたけど。長崎の人はおりません、みんな広島です。広島で結局広島へ行ったのは2、3年しかならない人もおったし、また歳は私たちより――私そのとき18歳だったの――年は私たちより大きかったけど、みんなもう70年以上になるからね、終戦73年に今年なりますから、言葉も皆忘れて、自分の暮らしている町も忘れてね。おばあさんたちは、日本語よく出来ないの。
私たちは日本生まれです。家帰ったら韓国人だけどね。外でたら日本人と一緒に日本で学校行って勉強したりして、結局学校卒業して、みんな工場へ行きますね。その当時は高等小学校というものがありましてね。中学の方へ行かない人は、試験を受けに行かない人は高等小学校2年。2年でも勉強しておけば、試験がないからそのまま入って勉強することもあったけど、私たちは6年卒業で???
韓国人はその当時は、男の子はね、みんな勉強させたけど、女の子はあんまり学校行かせられなかったからね。そのとき私の近所の子供達10人くらいみんな入学したけど、一年生、二年生、三年生でもう辞めてね、卒業するときは私1人だけだった。そのとき一緒に、昭和15年に入学一緒にした子供たち、みんなどうして辞めたかというたらね、自分のお父さんお母さんの工場で一緒に働いて、夫婦一緒に働いたらお金多いけん、やっぱり暮らすのがずっと楽だけどね、子供は昔は一年に一回でもね、子供できたら産まなきゃいけないから。今みたいに自分は産みたかったら産んだり産みたくなかったから産まなかったり、そういう時代じゃないけんね。子供できたら産まなきゃいけないけん。その子供を世話するために子供を世話して、午前に9時半15分休んだり、午後3時に15分休んだり、そのときに子供に乳を飲ませたり、共同のやかんで水を汲んで家のお母さんのね、ご飯炊くの手伝ったり、そういうためにみんな辞めたんよ。そういう風に暮らしてた。韓国の人は一生懸命働いたらもう金持ちみたいにね、あるいは配給時代でも闇で何か食べようと思ったら買うことができたからね。そういう風に暮らす時代だったので。私は???
そこで京都生まれで広島へ来て、ここ広島の方おりますか?おらない。江波というところでね、原爆落ちたとこから3km離れたところで、ちょっとへりです。私の家のもっと南のほうに2km行ったら三菱工場がある。第一三菱、第二三菱は加茂町の方に、海の向こうにありましたけど。そういう風にして船を作る工場でね。学校卒業して工場へみんな行きましたけど、私は工場へ行ってみたらうちの親戚の姉さんが、ゴム工場へ入れてくれてね。そこで仕事してみたら、もうゴムの匂いが、頭痛くて仕事できない、いつもあんまり臭いから。そういう風に他のとこ移ろうかと思ったけど、あんまり行きたいとこもないし。昭和17年春3月。そこの工場で日本の女の子、日本の人も小学校しかさせない(行かせない)人はたくさんおりました。日本の女の子と私と、江波の、私は江波であの人は舟入というとこ、私のちょっと横の町出ておりましたけど。広電という広島電鉄、広電というとこあります。バスと電車と株式会社。あそこに募集がついていて、日本の人と私でそこの試験を受けに行ったんですよ。試験を受けに行ったら高等小学校以上と言うていたけれど、そのときもう手が足りないから、みんな若い男性たちは兵隊に引っ張られていくからね。後からはもう原爆落ちる昭和20年になったら電車の車掌も女の人だったんよ。そのとき電車の車掌は昔はみんな男性がしたんですけどね。私たちがあそこに来たときはもう女の人がやっていました。あそこ行って試験受けて、私は広電の自動車課?の車掌したんですよ。広島市内のね、市内バスの。車掌を昭和19年までしました。昭和19年の4月までしました。19年の4月にね足痛くなってね。ちょっと休んだよの。休んだのに、そのときの時代が産めよ増やせよという時代で、猫の手も借りたいこの時代に休んではいけない時代でね。もちろん休んでる女の人は女子挺身隊にかかったし、男性は徴用、軍隊に行かなければ休んではいけない。私が4月に辞めたのに、3ヶ月目に、7月に、女子挺身隊にかかったよの。家で休んでたら。挺身隊にかかっても、その人たちが慰安婦に行かせられる、そういうのはないけれど、広島の軍用工場はたくさんあったね、どこの工場でも、「あなたが行きたいとこ行かせてあげるから、それに自分の勝手で行きなさい」と言うけんね、うちに家から近いとこ舟入というとこの桐原というとこがあります。桐原工場は樽を作る工場でね、あそこははい?を詰める、樽を作る工場です。あそこで私は仕事しました。7月から12月まで5ヶ月したんですけど、ところが一銭も給料くれない。自分の弁当持って行ってね、お昼ご飯持って行って食べて、自分の服破りながら、服も勝手に作ってね、買うこともできないその時代にね。自分の服を破りながら。そういう風にして着物を買うこともできずお金を一銭ももらえんし、そういう風に5ヶ月仕事しました。
その当時は韓国人は大抵結婚が早かった。16、17歳、18歳になったらもう歳が大きいということでね。もう19になったらちょっと怪しむように、みんな、そういう形で。男性は20、19、18になって男性はみんな結婚させたし。そういう風だったけれど、私は結婚するつもりはなかった。だけどその挺身隊が嫌でね、産めよ増やせよという時代だから。結婚したらみんな仕事行かなくてもいいんですよ。結局子供作れということですね。昭和19年の12月に結婚しました。結婚する男性がここの町の人でね。朝鮮行って暮らせないけれど田舎の人じゃないからというて。私の旦那は18歳の時に日本へ働きに行った人。そのとき徴用にかかる歳で、あっち行ったりこっち行ったり、逃げたり仕事したりしなかったり、そういう形でおる人で、結婚しました。結婚して私はもう挺身隊の仕事に行かなくてもよくなりましたけどね。お母さんは、あっち行ったりこっちいったり?米を分けたり田舎の方でいろんなもの持ってきたり、田舎いつも行くから。お母さんの商売手伝って。うちの実家一緒におったんよ旦那さんも。一緒におって、旦那は三菱仕事行ったし。
いつも空襲警報というてね、敵が来たらサイレンの鳴り方違いますね、ウォーーーン、敵が来たら寝床に頭の上に逃げる準備をしてね、防空壕とか薬とか色んなのをねリュックサックに入れて逃げる準備して。この電気も厚紙で三度巻いて、外に明かりが漏れないように、家の中での明かりが、そういう風にして暮らすときだったんよ。昭和20年8月6日、その日の朝7時頃、また空襲警報が鳴りました。また敵が来たかないうてみんな逃げる準備をしていたところ、すこし経ったらすぐ解放のサイレンがウォーーーンとまた、解除になりましてね。その日の朝ごはんは遅かった。5時半になったら家で寝なきゃいけないのに。物を食べたり物を作ったりして朝(ご飯)遅くなったんよ。遅くなってその日は、今日はもう(仕事)行かれないからもうダメだなって休む人もおるし、そうして生きた人もおるし。だから原爆落ちたのは8時15分といいますね。どうして8時15分かとかというたら、爆弾落ちたとき時計見る人がどこにおりますか。あそこの広島の資料館行ったらね、百貨店の大きい時計の写真があります。あそこに8時15分になって止まってんのよ。被爆のためにこれが止まったんだなというて8時15分と言うています。その時間に、仕事行く人はもう遅いから自転車乗って。工場行くときもう亡くなった人もおるし、自動車の中でまたは電車の中でやられた人もたくさんおりますね。結局その人皆亡くなりましたけどね。結局遅くなって。私の家は3km離れたところで、ちょっと〇〇ですね。そこ自動車行ったり来たりするけど、ちょっと??低いとこに家ががあったしそこに畑もたくさんあったし、いちごの木がたくさんあったしね、いちごがあの時はたくさんあったし、そういうとこです。そういうとこ、結局防空壕掘れないんだわ、下から水が上がるけ。掘れば水が出るけ、防空壕掘れないし。いつも空襲警報鳴ったら私たちは逃げていくのはどこか言うたら、兵隊さんたちが射撃を習いにいきますけど、そこに皿山?という小さい山があります。丸い山が。その皿山の下に射撃場があって、そこの下にいつも人間がおるけ、その深いところに500人くらい入れるところがあります。いつもあそこに逃げていくんです。江波本町はちょっと高いからそこの人は防空壕入れるけどね、そういう風に逃げていったけど。その日の朝8時15分だったかな、何か稲光みたいにパチッとしました。私は朝ごはん食べて旦那は仕事に行ったし、うちのお母さんと妹たちは部屋の中におったんだけれどね。
16#19:00から
大きな音がしました。グワーッと言って大きな音がしました。世界がひっくり返るような大きな音、今まで聞いたことがない、そういう大きな声が聞こえました。それですぐに家が潰れて、私たちが下敷きになってね、、下敷きになった所は家が、、瓦で大きい家だったらね、下敷きになって私達も死んだかも知れません。だけと、その時は韓国人はみんな立派な家で暮らしたら家賃が高いけね、家賃が安いところに暮らそうと思ってみんな屋根が、あれです。トタン、トタンの屋根でね、私の家も日本の人が畑を1年に~ずつ出してね。家をつくって、そこに暮らしました。そこに韓国人の家が12件あったしちょっと横の方にも12軒あって、その前の方にも8軒あったし、後ろ、その辺に100件くらいありました。そういうふうに韓国人がたくさんおりました。その辛いつらい仕事、汚い仕事また、力を使わないといけない仕事はみんな韓国人がしたし、日本の人ははちょっとしやすいようなね、仕事をしたし、今韓国もそうじゃないですか。韓国も大学をしたとして汚い仕事やりにくい仕事じゃなくて、外国の人はね、こっちきて仕事するように、そういう形だったんですよ。その当時も。そういう風にしていざ爆弾が落ちたらあの、火事になって、水をかける、そういう練習をしたり、また、看護師さんみたいにね包帯を巻くの女の人たちがね、あんなのが屋根上がって空襲警報が出てね、大きな声で叫んだり、そういう形で、そういう風に。
あとから知ったことですけど。その春も8月6日に原爆が落ちたけれどその春にも広島の、日本のもっと下にしまがあるでしょ、なんの島かな、あそこにもアメリカの軍隊がね、上がっていた、上陸していた島があるでしょ、何の島かな、あそこはもうアメリカの軍隊が上がっていた、上陸していたと、あとから聞きました。そういう風にして結局日本人が、手を白い旗を挙げないから、結局そういう策を使ったんでしょう。それで初めは日本の人も核だと言うのを知らなかった。なんか大きい爆弾が落ちたんじゃないかなあ、というね。もう爆弾落ちてひとつも怪我をしていない人もいて、死んだりねまあ、そういう風に何日目に転んで死んだりする人も多かったからね。それでうちのお母さんは結局こうペシャンコになってもごそごそして明かりが漏れるでしょあかりが漏れたらその明かりをみて、お母さんは這い出てね、外へ出て私たちを助けたんですけどうちのお母さんはここが切れてね、ここがひっくり返って血だらけになってね、体の血を皆落としたと思います。それで私も頭を怪我してね、今も頭に毛が生えない所があるの。私も頭を怪我して、それで妹2人はあまり怪我とかなかったけどね、そういう風にみんな怪我をしてようやく出ました。それで出てね、あの、長屋の人もみんな一緒にそういう風に出てね、どこに行こうかと言うと、もとはさやま?の方へ行くしかない、それでも狭山のほうに行ったら行きましたけど、市内の方からね、へりの方へ皆来て、みんな水水言いながら、そこはもう死んだ人の死体、山ほどありました、死体がねたくさん死体があるし、血だらけになってね、もう半分くらい焼けて、着物が焼けてね、だらだらになったり、男か女か分からないように焼けた人もおるしね、本当に地獄だった、生き地獄だった。それで水水言いながらね、そこにいて叫んでいても私たちはそれを見て、ああ、可哀想だ、どうにかして水を少しでも飲まさせてあげようか、そういう感じにもなかった。私達もすぐそうなるんだ、ああいう風にあの人たちみたいになって私達は死ぬんだ、そういう風にうちのお母さんと私も血だらけになって、座っていましたけど、たくさんなくなったけど、もう、あとから軍隊が来てね、世話をしたけれど、死んだ人は火葬して焼けてしまったし、そういう風にして生き地獄でしたよ。まあ今このくらい私が昭和三年に生まれたから91よ、それで今まで生きてこんなに長生きすると夢にも思わなかった。それで韓国に来て、外国でしょ?断ることもできんし、日本に住んで日本の言葉を使って、家に帰った、家でうちのお父さんお母さん韓国語をわすれたらいけないと言って少しづつね、日本語を混ぜてしゃべったりね、そういうふうに韓国語をわからないのにここへきて習って、今は完全に韓国語になりましたけどね。何か質問しますか?
小さい頃はどんな子供だったか覚えていますか?
こどもたちが?それは覚えているよ。これは、その、幼いころ、頭には。今は原爆のことをしゃべってるけど、今ちょっと前に、一時間前に聞いたことは忘れて思うよ、だけど昔のことはみんな覚えています。
日本にいらっしゃって楽しかったことはありますか?
楽しかったこと? そうです。友達とか。 それは懐かしい。今も日本が懐かしいのに。だから、、18歳と言ったら、私結婚したからね、その時、OOのために結婚したから。まあその時18歳になったらみんな結婚したけど、私も結婚しましたけど、その当時はもうOOOOしてるときはいつも映画見たりね、行ったり来たり。その会社はね、韓国人が入れない会社でね。手が足りないから韓国人の女の子が4、5人おったのよ、それでその友達とね、一緒に行ったり来たり、広島が懐かしかった。韓国へ帰って、食べ物もないしね、ここもこういう風にね、今は町もできて大きくなってるけど、昔はね73年前のここの様子をちょっと考えてみなさい。瓦もないしね、みんな藁でね、天井も藁でね、骨もないし田んぼもないし、何もすることがないでしょ。それで、食べ物もないからとても苦労しました。それで21年、21年にね、ここは私たちが暮らすところではないといってね。私と旦那さんとね、その時屋根の船に乗って日本に逃げた人がたくさんいますけどね、私は運が悪くてね、日本の対馬の警察官にね、捕まって帰れなかった。
原爆の被害を受けてからの生活とそれまでの生活との違いはどうですか?
変化はたくさんありました。そりゃみんなやけて野ばらになってしまったでしょ。食べ物ないでしょ日本にもね、それで、また田舎の方に知り合いがいて、うちのお母さんのね。その方へ行って、米や麦を買って、ご飯を炊いて食べたり、それで家も潰れましたよね、寝るところもないでしょ、田舎の方に自分の親戚がおって、そこへ疎開して空き家があってそこで暮らしていました。そして10月の末に帰りました、原爆が8月に落ちて
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韓国に来て結局お父さんが昔若いときにね、田んぼを鉱山路がね、実家に田んぼがあったんですよ。それで田んぼのためにお母さんは実家の方へ行ったし、私はここね、旦那の実家があったし向こうで暮らすように別れた。結局旦那がよく知っている、韓国語をよく知っているじゃない。18歳の時日本にいくとき、キムちゃん私たちは帰らずに日本で暮らそう働いたらもう耐えられるからね、キムちゃん私たちは帰らずにここで暮らそう、そう言いました。お母さんがかえるように、お母さんとここへきて一緒に暮らせないのに、何も知らないからそれで韓国へ来てまあ苦労しました、本当に苦労しました。だけど今はね70年間暮らすうちに日本の人は優しいし、親切だし、日本の人はたいていいい人だと思います。いい人が多いですね、まあ時には悪い人もいますけど。、心もちは皆優しいです。韓国人よりもね。それで私40歳になるまでね、いつも懐かしくて日本のことが、夢でもいいから行きたい。そういう考えで暮らしました。それでここではね韓国へ帰って日本語を使うな、日本の歌を歌うな、日本の本を見るな、そういう風にみな禁止になっていましたけどね、今は勉強しに日本へ行くし、日本の人も来るし、そういう時代ですけどね。その時はそういってたんですよ、ほんとにつらかった。その中で戦争の中で5年目に北の戦争があって、また疎開しなきゃいけない。
今お話の中で韓国人なのか、日本語で話をしたり、日本人として、そういう自分のアイデンティティーに迷いとかはあったということですか?
ここで暮らしているおばあさんたちがね、皆そういいます。日本の人はね、おとなしい人が多いし、親切な人が多いし、皆心もちがかわいい人が多いとみな言っています。時々ねそれが悪い人だと、日本の人が韓国に来てここで73年私暮らしたけど、その間にここで日本人が韓国のひとを悪くしたのそういうのをみんな習いました、私が。そういうのがあって、それで日本で韓国へ行こうと思ったら、朝鮮人は朝鮮へ帰らなきゃ皆殺される。そういう噂があったんですよ。それで、おかしいな、どうしてそういううわさがあったんだろう皆そういって韓国でね、車代があった人は帰って、車代がなかった人は帰れなかったけど、その時広島はそういう状況だったんですよ。大阪や東京で、そこで暮らした人は問題がちょっと違いますけども。それで後から聞いた話は結局韓国で悪くした人は、ちょっといじめた人は自分の財産をもって、もう終戦になって自分の国に帰ろうとしたら、むこうで暮らしてる朝鮮人がそれを奪ったり、たたいたり、韓国のものを持っていくなという意味で、いじめられた人がいた。日本の人がね、そういう人が日本に行ってそういううわさを作った。そういう人がいろんなうわさを言ったらしい。あとから聞いた話ですけどね。
ではそういう差別などを受けて韓国人として生きていこうとしたということであっていますか?
私たちは小さいころから外国語学校の6年間生活したりしたんだけど先生もそうだけど、絶対に韓国人を差別してはいけないと、絶対差別を受けたことはありません。こどもたちはね小さいころはちょっと何か、一緒に遊んでいて喧嘩したりすることはありましたけど。喧嘩して「朝鮮人のくせに」何かそんなことがあったら、大きい子供たちが来て怒る、どうして朝鮮人はここへきて暮らしているんだ。と言ったら子供たちは逃げてしまう。そういうのは何回見ましたけどね。日本の人は差別をしたり、いやなことをいう人はいなかった。でもね、大東戦争は日本軍起こしたから、忘れるない、昭和16年12月8日に大東戦争を起こしたのよ。日本でね。だから日本で起こして日本が悪かった。それでその前に終わった韓国、朝鮮、満州、樺太、今のサハリンね、シンガポールとか上海とか日本はみんな奪ったでしょ、奪ってそれが、欲張って世界一位になろうとして、アメリカが世界一位になっているのは、結局それはね、日本で醜かったらしい、それで韓国も奪って36年目にまた、、それで結局戦争に負けたから樺太やシンガポールをみな自分の国に戻してあげた、だから日本は韓国をね、、、、 お父さんの徳が孫の徳になるというね、そういう話があります。おじいさんがよくしたら孫がよくなる、金持ちになるという話があるんですけど、反対におじいさんたちが悪いことをして、戦争を起こして、今のお孫さんたちが困っているじゃないか、あの国も出せ、国にも出せ、あの国この国みんな出せ出せ言うから本当に困っているじゃないですか。戦争したらいけないよ、結局戦争は人殺しだからね。お前を殺さなきゃ私が死ぬという風にね、結局人殺しだから戦争をしてはいけないんですよ。その時大東戦争が起きたのは日本が悪かった。
被爆されてご家族やご兄弟と別れてしまったりしたことはありました。
私たちね被ばくして、皆広島で暮らしていましたけど、うちの姉さんは横川というところで暮らしたし、下の妹たちは私が結婚しても実家に一緒にいたし、韓国来て自分の旦那さんのご厚意で皆暮らすのは暮らすけどね。被爆のために別れたということはありません。
被爆者健康手帳については
健康手帳もね。韓国に帰って差別もまた会ったのよ。何をされてたかと言ったらね、被爆した人は二代三代になって子供が生まれて、二代三代になっても結婚を自分の勝手にできない、といううわさがあったんですよ。そこで支部ができたときに、被爆者が会になりますよね、うちの旦那さんはそこへ行って被爆の会になってはいけないと言って絶対行かせないのよ、うちの旦那はね。日本のお医者さんたちが来て薬をもらっても、私たちもみな被爆者だから、結局あそこへ、会に行っても、私は会になれなかった。うちの旦那が58歳に亡くなって、結局血圧でね、頭の。朝トイレでね、腫れて、その日に亡くなりました。おんなじ私が52歳の時、旦那がなくなった後、会になったのよ。うちの妹たちと姉さんと会になったのよ。 17#10:58まで17:14分から
(イ)『どのくらいの期間で手帳を取得出来ましたか?どうゆう期間、いつ、どのくらいかかって手帳を出したのか?』
それもね人によって、あの証人がすぐ持ったら一ヶ月目にすぐいく人もおるし、何ヶ月しても(証人と)口が合わなかったらね、こういう言葉はこういう、(14:30)?良いことは話せなくてね、喋ったら行けないこと喋ったら要らん事喋ったら口が合わんでしょ?そしたらそれ合わすのにね、間違いないのは間違いないように、こういう風にして何ヶ月前にいく人もおるし、色々おりました。そうしてもう大抵ね、大抵皆持っています。ここのおばさん達皆手帳を持っています。
(イ)『一番長い、一番かかった期間はどのくらいですか?』
一番かかった人は二、三ヶ月、ニ、三ヶ月ね、そんでもう早かった人は一ヶ月目でいく人もおるし。一ヶ月目にかかるひとは自分の親戚とかねよう知ってる人は口合わせが合う人はねいったりしました。だけど今はそういう風にしない。時々あの今はねわたしは時々来る人おるけどわたし書けない。73年目に今までどうして手帳をもらえなかったか、その理由を書きなさい。理由をどういう風に書くか、知らなかった、何も知らなかった、(15:50)70年になる間何をしたのか、私はそんなの書きません。今も時々来る人おるけど私書いてあげない。そうでしょ?テレビも出るしね、こう被爆者沢山おるのに知らなかったという事それは言葉にできんじゃないですか。時には若い時は原爆の(16:20)○○為に帰りに長い人おったけど、もうその時はお金は娘たちや孫たちはあそこお金が沢山あったけどね、今は年が取ってね、お金が欲しいけぇね、あの毎月小遣い少しでもお金欲しいけぇ(手帳を)貰いたい、そういう人今はおります。今はおりますけど、今はそれを起こせなくて⁇釜山へヨンサガネ⁇(17:10)釜山のあのヨンサガネ日本語でなんて言うかな?領事館、領事館へ出してそこへお世話してくれる。その人たち送って向こうでこっち領事館へお世話させて、領事館へわたし達持っていったり、また取りに行ったり、そういう領事館になります。なに?
(イ)『いつ何年に手帳を貰いましたか?』
私?手帳そうですね、私の旦那が亡くなって2年目かな?そのくらいに貰いました。そこでここで韓国で会員になって一年後に広島に行って学校へ行ってね、卒業証明書を貰ったりしてね、ほんで昔のわたし達の学校今アパートも作ってね、学校の向こうのもっと南の方の方にいって作っていましたけど。自分で暮らしたところへ先に行ってみます。今どのくらい変わったか、いつも行っています。(18:27)⁇今の○○○その辺で暮らしたけえ。
(イ)『法律についてお話を、法律について伺いたいのですけど、韓国人原子爆弾被害者支援に対する特別法という法律に対して考えることとかございますか?』
考えることは世界の人が皆思うてね、核を使えないように核を作らないように皆運動してるじゃないですか?そういう運動しているからね、もう韓国人もそうだしアメリカ人もそうだし、ここで何年か前にね世界の人皆集まったんよ。集まってここの大きい会館でね式をしたり、またここへ来てね皆話したり、まぁ色んな国が来ましたよ。そういう事もありますから、もう戦争は皆嫌がりますね。もう戦争はないと思います。今アメリカあと北のほうもね、北は南の方へ迫ってきて南の方へ北の方のように皆あの自分の国にあろうかと思いますけど、アメリカと南の方はアメリカが世話しているし、北の方はロシアと中国と⁇シナの方があの人たちがそのまま置いとかないでしょう。私たち南と北だからね、もう仲良くして同じ食べ物なかったらわたし達あげるし、そういう風にして仲良く暮らすこと出来るけど、もう大東戦争の時その時もうそういう風に小さい国がね、二つになって南の方はアメリカ、北の方はロシア、そういう風に分けたじゃないですか。じゃけんそれはなかなか取れないじゃないですか。それは一緒に今北と南一緒にドイツみたいにね、国を一つに私たちは一つだと言っているけど、その人たちのために出来ないよ。私たち死んだあと、何十年後そういう事できるか知らんけど、今私たち生きとる間は見ること出来んと思いますわ。
(イ)『法律の適応の方法が、日本人と韓国人の差で韓国人の間で不平等だと感じたことはありますか?最近法律が変わったという事はちょっと調べて来たんですけども、今まで日本に来なきゃ治療が受けられないとか、手帳を取得するのが日本より難しいな、という様な不平等を感じた事はありますか?』
難しいのは難しいけどそういう風にしなきゃいけないけぇ。結局国が違う、お金の問題がそこにあるからね、結局その手帳出してあげたらその人の手当を毎月毎月ね、少しずつでも出さなきゃいけんけぇね、それお金の問題があるからそういう風にしなきゃいけないんよ。なんだって結局反対になって日本でそういう風に韓国来たら、韓国はもっと酷いかもしれない。私はいつもそう言うてます。
(イ)『先ほどシム・ジンテさんにインタビューした時に韓国政府が実態調査をしていないとか色々おっしゃっていたのですが、韓国政府や日本、アメリカ政府に求める事はありますか?』
そうですね、それは結局求めることと言うても結局今私が話したでしょう?北の方はロシア、南の方はアメリカ、そういう人たちは日本も今そうでしょ?日本もね、日本もその一つ、アメリカが掴んでいるからね。日本のままに出来ない。いつも誰かな、日本の総理大臣なんて言うかな?安倍さんがなんとかなんとか言うてもね、結局アメリカがおっけいしなきゃダメ、韓国もそうなっているし。じゃけん自分たちでね、今北と南でね、自分たちで大統領同士でね、ああいうたりこういうたりしてね、まぁ南の方へ沢山あげたりしてね、そうしているけど、それも結局一年、二年にそうは⁇(それぞれの国が独立した国家)なれないよ。私たちそれを見ることが出来ない。私たちは亡くなってね、まぁ後から何十年後になるか分からんけど。
(イ)『次の世代、若者たちに伝えたい事はございますか?』
若者たちに伝えたい言葉はね、結局この原爆に対して知らないからまず、知らないから知らなきゃいけない。結局日本であの大東戦争を起こして、戦争を自分たちで起こして結局アメリカにやられたでしょ?なんで負けたでしょ?負けてそのために朝鮮の国を奪って日本は持って行って結局私たち犠牲になった人たち沢山おるでしょ?それじゃけん、結局戦争はしない方がいい。戦争は皆人殺しだから。(25:36)○○今ねこう言ったりああ言ったりしてもしょうがない。それはもう私たちがよう知っている事だからね。あの日本に行って、私が日本に行った時8月6日テレビ見てたらね、高校生が男性が出てテレビで今頃食べ物がいいからか背もいいですよ。何でも自分がやりたい皆やれるからいいですよ。中学生ちょっと小さいのが出てね、私は当時日本が悪かったと思います。その子供がね小さいのがそう言うていた。そいで小さい子供があんな小さい奴がね、あの子の子供の言葉があれが本当だよ、と日本の人もそう言うてました。日本の人も知っているよ。日本の人がどういう日本のした事が悪かった、どういうのがまぁ韓国は悪かった、というのを皆知っていますからね。それで今も皆そうでしょう。私いつも言いますけど、竹島のこですね、竹島もそうよ。私たちが日本で暮らした時日本は神の国、強い国、戦争に負けない国、正しい国、そういう風にいつも私たちを励まされてた。だけどそれを本当だと私たちはそう思ってきたのが結局戦争に負けてもうなにも言われない様になってしまったのに。竹島もそうよ、60年間知らん顔して、韓国で岩を海の真ん中岩を世話をしているのにあれは60年間知らん顔して60年過ぎてもう今は条例前くらいになるでしょう?それから竹島は日本の物だ。それを教科書に出して子供たちに勉強させる。結局それがね、子供の喧嘩が大人の喧嘩になるという風にそういう子供たちに悪いのを教えてあげるんよ、韓国悪い国だって。これは日本の国で、韓国がいつもお世話しているのに。それおかしいのは私がおかしいのはどうして強い国正しい国がどうしてそれを60年間探せずにそのままほって60年過ぎて今更それを海の真ん中に小さな岩があるのにあれが何がそんなに、うん?海の底に何かいい物があるか知らんけどね、そういう風にそれは日本で、、いつも日本のあの高校の先生が来ます。その時ね、先生は子供たちに教科書の事そのまま子供たちに教えますか?わたし先生達にそう言います。そんな風にしてはいけない。正しくして早くどのためにあなた達のわたし達のという風に決めて、ほいで真っ直ぐそれを直してほいで教えてあげなさい。そうしたら子供たち今韓国とまた戦争を起すその度にまた喧嘩する元になるからね。私そういう風に日本の人がそれが、わるい、そういう人はいけないといつもそう言います。そう言ったら先生たちは私たちは真剣そういうのしません。日本も時々悪い奴居ますし、そう奴達がそういう話をする。
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そんな真剣しません。そういうてました。そんで私がおかしいのはそうゆう正しい国、強い国がどうして50年か60年か知らん顔していたのか、それがおかしいです、私は。
(イ) 『忙しい中時間をいただきありがとうございます。以上でインタビューを終わりにしたいと思います。ありがとうございます。』
もう質問はありません?後ろの人は?知りたいことありませんか?私たち日本に暮していた頃時はね本当にいろんな人は皆ね、親切だし、大人しいしね、まぁ時々まぁワンワン言う人おるけれど、そういう人は何処にもあるからね。韓国にもあるし、そう。日本の人は皆大抵下はね⁇人間がいい人間だと思います。いつもそう思っています。そう思っているけれど、まぁもう日本に暮せないし、ここでもう韓国のね、韓国70年間完全に韓国人になったし、いつも日本が懐かしかった。今は今頃は日本に行って暮らしたいなという感じがありません。今頃ね。ここもよう皆暮らしているけぇ。それからこれはね、あの、あの1996年これが出来てね、それで結局暮らす、私たちがここで暮らすようになってね、今はあの国から私たち沢山食べさせるしね、(1:40)楽によう暮らしているよ。
(イ) 『貴重なお話ありがとうございます。』
もう知りたいことありません?
(太田)個人的にですか?キムさんがこう世界にどうなって欲しいって考えているのか、ってちょっと聞いてみたいなっていうのが個人的な願いです。キムさんの願い。
(イ) 『キムさんがこれから世界がどうなっていくか…??』
(太田)『キムさんがこの世界がどうなって欲しいか。望みとか願いとか。』
私の望み!?望みはそうですよ。結局日本の人がね、私たちが悪かったって皆知っているけど、それをねいつも私たちが喋るよりそれあんまり言われないから、実際におうたらあの大東戦争を起こしたけん、日本が悪かったっていうの知っているでしょ?知っていても、今更しょうがないからね、後からは戦争というのはしていけない。(2:55)⁇今私みたいにそれを直して自分のものになって韓国人のものそれをはっきりして探して、日本(?)はっきりしてそれをね、子供たちに教えてあげなさい。そうゆうことよ、それは悪いでしょ。まだね、韓国人のか、日本のか、はっきりわからないそういう状態で自分の何かお話があるでしょ??(3:17)日本にはお話??があるでしょう?それで、教科書を出して子供たちに教える、これ韓国人が悪いよ。韓国人も日本で、昨日高校一年生がここへ来て一年生が、日本で育った子供は今韓国来て勉強してる。これ、あの終わってね私が(韓国語で子供たちに)ハング ニ ウェ?(子供たちは)日本の歴史を習ったのに日本で日本の歴史を習ったのに、韓国にきて韓国の歴史を習わなかった、また日本が悪いということがあるし、また日本では韓国人が悪かったことがあるし、それがどういう風にどれを信じたらいいか分からない。私がそれはもちろん悪いのは両方だ、皆あったでしょう。それはそのまま日本は日本で習って、韓国は韓国の出習って、結局後から大きくなったら、皆ね分かるようになるから。そのまま習いなさい。どうすることもできんじゃない?どうすることもできんし、私こう言いました。
(太田)『ありがとうございます。』
私に会ってこれで終わるんですか?
(関)『あの、個人的に…』
スヨン?イ・スヨン?私たちのスヨンもするんですか?
(関)『スヨンさんもしますね。一個だけいいですか?最後に。あの、簡単な質問。個人的な質問なんですけど、今は幸せですか?』
(イ)『今は幸せですか?』
今幸せ、そうです。今は幸せです、はい。今家でね嫁さんとみんなで一緒に居るよりはここで友達と一緒に居るの幸せ、うん幸せです。
(関)『幸せですか。良かったです。それを聞きたかったです。ありがとうございます。』
それで日本の人が来たらね、故郷の人が来たようにねいつもね皆懐かしいよ。また広島に来た人もね時々あるし。
(イ)『ありがとうございます。』
『』:インタビュー者(ゼミの人たち)