イ・スヨン さんインタビュー

最終更新: (更新者 鈴木 靖

イスヨン さん インタビュー

 

こんにちは。遠いとこでいらっしゃいましたね。お疲れ様でした。

イ「子供の頃はどのような子供でしたか?」
私は慶尚北道高霊郡というところがあるんですよ、ここで(から)近い。7歳の時、お母さんに連れられて日本に渡って名古屋に行って名古屋で何日か休んで、広島に行ったんですよ。あのとき広島駅に行ったらね、韓国の娘さんたちが髪を長くして編んでリボンを結んで、そして行ったり来たりしてたんですよ、広島駅に行ったら。あの人は全部徴用に行ったり慰安婦に行ったりそうしたと思います。そして、7歳の時だからはっきり覚えているんですよ。そしてお母さんがどこか職場をもらって、風呂屋の掃除。韓国で(から)来たから日本語もわからないでしょ。それだから風呂屋の掃除するところへ就職したんですよ。そこでお部屋を1つ借りてくれて、そこで私たち、大きいお兄さんは他のところ行ったし、次男のお兄さんと私とお母さんと3人がそこで泊まっていたんです。そして私は広島千田小学校、市立小学校あるんですよそこの近くに。そこに私は入学して、高等2年まで。6年生卒業してまた高等2年までそこで、卒業して。そこで担任の先生に卒業するときに、「あなたは市役所または広島貯金局、どこでもいいから願書を出しなさい」と言われて私は考えてみたんですよ。私は韓国人だからあの当時はね、戦争時代だから秘密がばれるかと思って、韓国人は就職できなかったんですよ。国家公務員だから、国でする仕事だから。でも私は勇気を出して願書を出したんです。市役所よりも女の職場は貯金局がいいだろうと思って貯金局に願書を出したんですよ。そうして試験を受けて、筆記試験と、あのときはコンピュータが無かったから、そろばん試験と口頭試験と。そうして受けたんですよ。受けてよく試験はみたんですよ?(できた)。だんだけど、その後が困るんです。どうしてかというたら、私は韓国人だから、ああいうとこ韓国人は入ることができなかった。それだから身元証明書を取ってきなさいと言われたんです。あのとき私は韓国名を使わなくって日本名を使ったんですよ。吉田千代子、日本名が。それでどうしてもばれるかと思っても勇気出そうと思って、高霊郡、あれが私の故郷でね、高霊郡に身元証明書をめいしょ?長に出したんですよ。出したら返事がどんな風に来たかというたら、「吉田千代子漏れなし」という返事だけで、めん長さん?の判を押してくれなかったんですよ。それで試験官に出したら「あ〜これはだめだ」と言うんですよ。それだからまた私は出したんですよ、二度と(も)出して「めん長さんの判がないですからしてください」と言うて出したらそのときはめん長さんが「吉田千代子漏れなし」と言うて判を押してくれたんですよ。んで試験官に持っていったら試験官は「よろしい」。私は試験に○たのがよく、合格したのがよく、あの試験はよくしたと思います、優秀でね。それで合格で、それで私はそこに勤めていたの、広島貯金局。国家公務員の在職証明書ももらっています。もらっていますし、それでそこで仕事して原爆に遭ったんです。そしてそこで原爆に遭って私は、朝は、家はどこにあったかというたら高須というとこ、あの己斐駅で2こうず?そこに行ったら高須というところがあって、そこでずっと川の方に行ったら中間に氏神様があってそれを過ぎていったら私の家で。お母さんがはんば?、お兄さんが建設会社をしていたから(勤めていたから)、仕事する人はご飯炊いたり?初めは風呂屋で仕事したけど引越しして高須ではんば?をしたんですよ。そこで私は貯金局まで通っていたんです。千田町一丁目というところに貯金局があって、停留所を降りたらすぐ横に私の職場、広島貯金局があって、その横に職員たちが入る防空壕が掘ってあるし。そしてその日は天気は本当に良かったんですよ。良かって、報国隊が疎開に行った家を壊していた、天気が本当に良かって。そうして壊していたけど、私はあのときは、いつも朝電車が混んで遅刻するときが多かったんですよ。市外電車乗らなければいけないでしょ、また市内電車、私は市内に貯金局があるから、家は市外にあったから。ちょっと遅刻する時が多かったの、人がたくさん来る?んで。そしてその日は私がこの歳まで生きるために途中で原爆に遭わなかって、職場で仕事しようと思って椅子に座ったときにピカっとしたんですよ。そして原爆に遭って、あのときは私たちは訓練をたくさんしたんですよ。色々な訓練をして、鉄兜も?準備ができているし、防空頭巾も準備ができていたんで。急にそんなことがあったからそれを被ることができなかった。そしてピカっとしたから椅子を引いて椅子の下に俯いて、目と耳を手で押さえて、そして俯いて。その瞬間に私は失神してしまった。そして気がついて起きてみたら、血の海に私は俯いていて。今左の足に10㎝くらい傷があります。70年過ぎてもこれくらいの傷があるんです。そこでガラスの側に私の机があって仕事したんですよ。それでピカっとしたときに爆風と熱風とが飛んできたから、ガラスが壊れて私の足の甲を掘ったんですよ。だからそこで出血がひどくて、その血が私が俯いてるところ全体に広がって。着替えも顔も頭は、髪は爆風と熱風で逆立って、顔は手でちょっと隠したからいいけど、頭、首、手、手の甲、足全部ゆり?(ガラス)に刺されて、そして左の足は出血したし髪は逆立ったし、顔にも、手にかかったところはいいけど手にないところは全部ガラスで刺されて、手の甲も刺されて、血だらけ。着替えも血だらけ。私の履いていた靴もどこに飛んでいったか、無いし。椅子も机も全部なかった。私1人俯いてた。血の海へ私一人で失神して、気がついたときは。広かったけど私の事務所は、広かったけど机も全部飛んでどこに飛んでいったかなかった。そして私は気がついて、「あぁ、これはいけない、生きた」と思って、あのとき階段に、二階だから私の事務所、二階で階段に降りて、貯金局の側に防空壕掘って、職員たち避難するようにといって防空壕掘ってあったけど、そこの中には町の人が、周囲の人が全部入って、布団を被って「お母さん助けてお母さん助けて」といって泣いていたんです。で入るところがなかって、そうして血は吹き出すし、しょうがないから私はここで「だめだ、私は生きるなら生きるほど歩かなければいけない」と思って電車道を歩いていったんです。そのとき報国隊が家を壊したところは全部潰れていて火事になっているところもあるし。そして電車道をぽつぽつ歩き出したら風呂敷があって、血を止めなければいけないと思って、固く閉めて、そして裸足で、片足は草履を1つ拾って履いて、電車道をずーっと歩いていった。電車、、道は割れているし、電柱も倒れているし、電線も切れているし。そしてずーっと歩いていったら、ふと後ろに(を)見たら広島市内が火事になってた。あのときご飯炊く時間だったから。ま、火事になっているし。朝なのにそんな天気が良かった朝なのに夕方になってしまった。雲(り)のように、暗くなって、原爆落とした煙が、ザーッと広がってから。そうして黒い雨が降り出したんです。私の考えは黒い雨に油を混ぜたような考えでした。だから市内は全部火事だらけ、燃えていたんです。そしてずっと歩いていったら土手が出て、橋が、広島は橋が多いんですよ、川が多いから。で橋が出て、その横に土手へ竹の木が立っていたし、そこに行ったら被害者が全部集まっていた人、裸になっている人、足がなくなった人、手もなくなった人。熱風にあった人は焼けて皮が剥けて爪先に垂れるし、また体の皮は足首に垂れるんです。そしていつもこんなんして歩いて、足の皮剥けたらどこでもかかったら倒れるんですよ。それが体にひっついて取れないの、皮がないから。肉と肉ひっついたら、取れないの。それでそこで倒れたそこが自分の死の場所、そういう人もいたし。そして少し待っていたら、市内は火事になっていたし、黒い雨も降ったし。それでそこの被害者たちは、防火水(槽)があって、水が欲しいのですよ、防火水(槽)飲んだ人は、防火水(槽)水をかくかくと飲んでいて。少ししたら似島という部隊があって、似島そこで軍隊がボートを持ってきて、「軽傷者は乗ってはいけない、重傷者だけ乗りなさい」と言われて、私は全部血だらけだし傷だらけだし髪も逆立っているし、そういう幽霊やないと思う、そして私を乗せてくれたんですよ。足に(から)血が吹き出すから。そして船に乗って島に行ったんですよ。島に行ったら軍隊のこうどう?があって、そのこうどう?に半分は火傷した人、半分は怪我した人。で私は怪我だから、怪我したところに毛布二枚くれたんですよ。一枚引いて一枚、、。そしたら私の同僚が一人来て、二人で毛布二枚で作業?したんですよ。火傷した人は、皮もむけた人、腕もない人、足もない人、裸になっている人、そういう人はハエが飛んできて、ついていったら?ウジがたくさん来て、血だらけだから、ウジだらけ。そういう人はまぁ、すぐ死ぬんですよ。生きることはできない。どうすることもできないほどウジが湧くんですよ。そしたらそれは軍隊さんが来て車に乗せて。どこで焼くのかそれはわからないけど、油をかけて死んだ人全部焼くんですよ。私たちは怪我したから、そのままそうですけど。火傷した人はすぐ死ぬんですよ。そして3日目に私の貯金局で食べるものを送ってくれたんですよ、「同僚と二人食べなさい」と言って。それで食べていって5日目に私の同僚の弟さんがお姉さん連れに来たんですよ。弟さんが広島駅の駅員でして。それでお姉さん連れていくんだけど私はひとりぼっちになってしまう、そのとき。そしたら私は涙を出しながら、私は「どうしようか、家族が生きてるか死んでるかどうなっているかわからないんだ」というて涙をこぼしていたら、私の同僚が「心配しなさんな、私と一緒に帰りましょう。私の親戚の家にあなたを養子にあげるから、一緒に行きましょう。そして家族が生きていたら家に帰れるようにして一緒に行こう」というて一緒に帰ったんですよ。帰る途中に見たら、家は全部壊れて、焼けているのに所々に煙が出るところがあるんですよ。そこ見たら、人間も焼けているし、馬も倒れて死んで焼けているし、犬、猫が焼けているんですよ、煙出るところに。そうしてみたら田舎で大根収穫するでしょ?死体は、私たちが原爆被害を受けて毒ガスを飲んだら水に飛ぶんですよ、川に飛び込むんですよ。川に飛び込んだらその人はそこで水を飲んで死ぬ。そういう死体を全部引き上げて、あっちこっち重ねてあるんですよ。重ねてあるのに、男子か女子かわからないの、区別ができないの、死体が膨れて。そういう死体がずーっとあちこちに重ねてあったんです。そうして私は家に帰ってみたら家が(を)遠いとこで見たら倒れていた、倒れていて。そこで私の同僚は帰って、私は家に帰った。お母さんが、その前に私のお兄さんが私が死んでいるか生きているか確認するために貯金局まで歩いて、あのときは全部家も倒れているし家も焼けてるし、広場になっていたんですよ。あちこち煙はでたけど。それで貯金局まで歩いてきて貯金局の死体を全部起こして見たら私がいなくて、そして聞いてみたら「似島に行ったそうです」ということを聞いて、そしてお母さんはったいこ?を作っていたんですよ、私に食べさせるために。そして私が「お母さん」と言うて行ったら、お母さんが、(私が)幽霊のようにして行ったから血だらけになって、だからわからないの。自分の娘だけどわからなくなって、目が(を)まんまるくして(私を)見つめているだけ。私は涙を流しながら「お母さんお母さん」言うたら、お母さんが気がついたそうね。「あぁお前が生きていたんか」と言うて。そこで私のお兄さんが「韓国に帰る」と、「日本にいたらアメリカ人が来て女性は全部連れてくからだめだ、韓国に帰んなさい」と言うて、闇の船に乗って帰ったんですよ。今も私は後遺症で、今ストッキング履いてるの両足。腫れてる、両足。それで韓国に帰ったし。それから韓国に帰って釜山に到着したとき、女性たちがアメリカ人が多く行ったり来たりするのを見ているとき、マフラーかけてやんせんし?という、日本語でどういったらいいかわからんね、そういう女性たちが行ったり来たりしてたんですよ。それで私は田舎の方にここに来て、言葉ができないから。あのときは日本で教育受けて日本で育ったから韓国語わからなくて、あれが一番困った。そして私のお兄さんが私を探しに来たときに、着替えを全部ワイシャツかなんか着て?生きてる日本のおばあさんたちが「助けてくれ助けてくれ」と言うて、お兄さんに、「助けてくれ」と言うたから。お兄さんの救急袋に、私にくれる(はずだった)缶詰と色々なものをいれてきたときに、どうしても話してくれないんですあの人たちが、「助けてくれ」と言うて。そして缶詰を開けて1つずつあげて、そして貯金局まで行った?長男のお兄さんは警察かいさい?へ行ったから、家が倒れて家の下敷になって、ようやく生きて帰ったし、次男のお兄さんはあのとき広島大学の夜間大学に通っていたんです。で川に泳いで家に帰って。私の兄弟は全部生きたけど、韓国に帰って全部亡くなりました。私一人が長生きする。
韓国に帰ってから広島貯金局からハガキが来たんです。ハガキはどういうハガキというたらせんだい?見舞金と色々な退職金と共済組員と、色々なお金を取りに来てくださいというハガキが来て。2年の期間にテレビ放送、新聞またはラジオ放送したんですけど、あのとき私は行くことができなかったんですよ。韓国と協力(国交)がなかったあのときは。日本に行くことができなかったんですよ、協力がなくて。そうして50年ぶりに私が健康手帳を出しに行ったんですよ。それも日本のおじいさんがあのときは観光に韓国へ来て、私が日本語できるから、色々話したときに、イノウエウラユキというおじいさんが。そしたら「あなたの健康手帳出しなさい」と私に励ましてくれたんです。そして私は50年ぶりに行く前にこのおじいさんに私の本籍住所と私の歳と広島貯金局のあの、、私が書いてあげたんですよ。それ持っていって、広島貯金局は内部は全部焼けて屋上はちょっと崩れてたんです。それで本局は駅前にあったんですよ。そこに行って原文を探しに行ったら、総務課長が(に)「私たちは忙しいからおじいさんちょっと探してください」と言うて、おじいさんが、一日(目)はじめ行ったときは出ないし2日目に行ってもでないし、私書いてあげたのに。で2回目には「あぁ韓国の人は嘘ばっか言うからあれ嘘じゃ、あのとき韓国人は入ることができないところだのに」いうて、3日目に行って探したんですよ。同じ私書いてあげたそのまま、本、あのあって、そうして総務課長にいって、ま、万歳をした。「はぁ出た」というてね。そしたら総務課長が「早く連れてきてください」といわれて、そうして50年ぶりに私は行ったんですよ。行って、あのときせんだい見舞金とかそういう色々な話をしたら、課長、系長、偉い人たちが私の両方に立って、私をせんだい来たというて迎えてくれて。あのとき涙が出そうに、本当に良かったんですよ。そしてお茶を一緒に飲んで。そして帰るときに「残念です」と言うてあの人たちが、「残念です2年の期間の間にそういうのをハガキで送ったけど協力がなかって、まぁ遅れました」というて残念ですということばっかりで。そして50年かかったから2年期間をしたのに(働いた)50年かかったから、残念ですというばっかり。そして「日本で何か補償することがあったらぜひ来てください」と言って、広島に来たら「来るときまで(また)寄ってください」と言う、そういうことでした。それで前はコンピュータがなかったけれど、今はコンピュータがたくさんあるから私をけんかく?してくれたんです。そして「いつでもいいから寄ってください」という。

遠いとこでいらっしゃいまして、本当にありがとうございます。

イ「若者に伝えたいことなどありますか」
勉強熱心にして、戦争がなくて世界仲良くして、核という戦争が無かったら良いと思います。核兵器がなかったら、そのためにたくさんの広島の第二中学校の一年生全滅したでしょ、322人と先生が4人。全部全滅したでしょあのとき。
幼い子供達全部命を原爆がもってしたから(もっていってしまったから)。戦争がないと一番良いと思います。核兵器がないと一番良いでしょ。

イ「日本の政府に対して不平等な差別を感じたことはありますか」
差別は私はなかったです。韓国の人が住んでるところに私たちは住んでいなくて、日本の人(が)住んでるところにいて、学校も担当の先生が可愛がってくれて、いつも、「先生の家に遊びに来なさい」というて遊びにいったり来たりしたんですよ。んで、差別はなかった。

イ「韓国に帰ってきて差別などありましたか」
韓国に帰ってもまぁあの原爆受けた人は嫌がった(嫌がられた)んですよはじめ。私は言葉ができないから嫌がっても(嫌がられても)わからなかったんですよ。
(20の4分~)
「日本での生活が長かったとおっしゃってたんですけども」
7歳の時日本に渡って18歳の時に帰ったから。

「アイデンティティ自分のその自分が何人だとかいう迷いとかアイデンティティの混乱はありましたか」
そんなことはなかったです。うん。私はねぇあの差別は受けたことないから。日本の人と一緒にまぁ日本と仲良くしたから。
じゃあ自分は韓国人だという意識で生きてこられたということですか?日本人だと感じるではなくて韓国人であるという自信を持って生きてきた
私はねぇあの日本に住んでいても日本の人と一緒によく仲良くしたからねぇ何も差別も受けたことないし、いじめられたこともないし、私ら誰が見ても日本人だというのです。今でも私が一年に一回ずつ治療受けたり子宮がんの手術をしたんですよ。広島で、広島市民病院で。手術した時9か月広島にいたんです。それでも何の差別もないし、また病院はどこでも私がただで治療することできたんですけど、人んところ行ったら、日本のおばさんがちょっと差別のようにしたかったけど、私は日本住んでいて、国家公務員の在職証明書もあるし、あなたの国で私は働いた人で、あなたはいじめたらいけませんよと言って、私があのおばさんに言ったんですよ。そしたら、おばさんはい言って、いじめることやめたんです。始め、いじめようと思ってたんだけど、私がそうしたら。

「写真とか小さい頃の写真とかありますか」
今日写真持ってきた。私の子供の写真もあるし、写真も持ってきました。これはあの被爆者健康手帳初めて日本渡ってもらった。そして、この健康手帳もらったのちにあの河村病院という病院にあってそこへ入ることが出来なかったんです。満員で。それで、あの、ここ、健康管理送信センターか、ここで治療受けて、検査して、帰ったんですよ。私の職場は。これあの私が50年ぶりに行ったときに、学校であのせんだむ物語という広島私立千田小学校ここであのお土産にくれたんです。ここにこれが私の職場。これが私たち原爆あった後にあの仙田小学校学生たちがここで勉強したんです。今はこれ壊して、何もない。駐車場が今この貯金局壊した後に駐車場になっている。これが50年ぶりに行った写真ですよ。広島の記憶永遠に、50年前の友達あってみた。この時学校に行った時にその当時の校長先生、これが私、この人は前の教頭先生。これ当時の校長先生。これひだんの会長さんです。前の教頭先生。これ広島貯金局の中にあの私就職していた時に写真撮ってある。訓練していた時の写真、いろいろな写真出して、その課長さんが私に見せてくれた。あの当時の写真だという。これ貯金局の記念に取りましょうと言って、この人は総務課長、で私、これはけいちょうさん、あの当時私に、50年ぶりに行った時のけいちょうさん。この時は広島貯金局だったけど、原爆の後は広島貯金事務センターになった。変わっているんです。私立っているここの後ろに貯金局の建物はあって、原爆にあって、それがあの時壊して、あの駐車場になっていたんです。記念にここで私が写真を撮ったんです。これは学校、私私立小学校。あの50年ぶりに行った時の教頭先生、これは私、でここが原爆にあった後に新しくあの建物建てたし、そして私たち原爆の後にあの運動場にあの木を植えたし、そうしたそうです。そういう話をしてくれました。これは私貯金局の総務課長さんがいろいろ話してく、本を持ってきて、いろいろ話して、これは記念に総務課長さんと写真撮っときましょうと言って、写真撮ったんです。看板、この後ろに貯金局があったけど、壊して、駐車場になっていたんです。これは昔の広島で私は健康手帳出していた時、ぼくしさん、この時私は子宮がんで手術した後に、写真撮った。これは長崎の日本の人は、ここに来て、みんな長崎電信局新しく立てているということを私に見せてくれた。これは共済組合省で、〇年の間に、これは貯金局でコピーしてくれた。これ共済組合省で、コピーしてくれた。二年の間に、あの時当時、4千円制裁見舞い金。4千円でしたんです。コピーしてくれた。これはあの貯金局でコピーしてくれた。これが学本、学校であの時私名前が韓国の名前と日本の名前と、ここにあるんですよ。私の名前日本名吉田千代子。学校に行った時に学校で学本、私の名前どこかにあると思う。どこにあるかね。イスンヨン私の韓国の名前と一緒に書いてるのがあるんですけど、ああ、ここに。吉田千代子、イスンヨン、ここにある。学校に訪問した時に、コピーしてくれた。卒業した人の名簿。いろいろコピーしてもらったんです。

「健康手帳写真撮らせてもいいんですか」
これ今の健康手帳じゃないんですよ。これは初めて私が日本に行って出した。今はここあの色が違うんです。ここに、距離、1.5キロ、千田町一丁目。

「足に傷があると言ってたんですが、見せてもらえますか」
今は70何年経ってるから、ちょっと傷が小さくなっているけど、始めはこんなに大きくあったんです。いつもこれ足が腫れてるの。むくんでるの。ストッキングはいてるから。後遺症でこれ腫れるの、原爆の。

「いつから足が腫れましたか」
ケガした後に。

「すぐに」
すぐ。血が吹き出して。

「ずっと、それから」
原爆があった後、ずっと今までこんなに腫れてるんです。ストッキングをはかなければ、歩くことがちょっと難しい。重たい、腫れてるから。