Seq. | 映像 | 音声 | 効果音・BGM | ナレーション |
オープニング | 衆議院解散 | 2017年9月28日、解散詔書が読み上げられ、万歳三唱の中、衆議院が解散しました。多くの重要な法案の審議が予定されていた国会。その一つに「特定連合国裁判被拘禁者」、いわゆるBC級戦犯に対する「特別給付金の支給に関する法律案」があります。 | ||
日韓基本条約の締結時の首相同士の映像 | 1965年、日本と韓国の国交正常化の際、日韓基本条約とともに結ばれた日韓請求権協定によって、両国間の戦後補償問題は「完全かつ最終的に解決された」とされてきました。ところが、近年、韓国政府が公開した外交文書から、未解決の問題があることが明らかになりました。 | |||
イハンネさん(無音) |
イハンネさん、93歳。17歳の時、日本軍の軍属となり、オーストラリアやイギリス、オランダの捕虜を収容していた捕虜収容所で、3年間、監視員を務めていました。ところが、戦後、捕虜虐待の罪でBC級戦犯として裁かれ、死刑判決を受けました。当時22歳でした。 イハンネさんはその後減刑されたものの、同じように死刑判決を受けた朝鮮半島の出身者は23名。彼らは再び故国の土を踏むことはできませんでした。 サンフランシスコ平和条約が発効し、主権を回復すると、日本は旧軍人恩給制度を復活し、戦犯やその遺族への恩給や扶助料も復活しました。ところが、イハンネさんたち旧植民地出身者は、戦後日本国籍を喪失したという理由から、これらの制度の適用外とされました。 |
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イハンネさん(アップ) | 日本が犯した罪で処刑されながらも、日本人でなくなったとして補償を受けることができなかった仲間たち。そんな仲間たちの無念な思いを晴らそうと、イハンネさんたちは、いまも日本政府に謝罪と補償を求め続けています。 | |||
日韓の旗 |
教科書では学ぶことのなかったもう一つの歴史。私たちはこの問題にいまどう向き合えばよいのでしょうか。 |
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タイトル | 戦後補償に潜む不条理~韓国人元VC級戦犯の闘い | |||
承 イハンネさんの生い立ち |
韓国・生まれの土地(全羅南道) 朝鮮半島の地図? |
イハンネさんは、日韓併合から15年後の1925年、全羅南道宝城(チョルラナムドボソン)郡の貧しい農家の長男として生まれました。 お父さんの李秉均(イ・ビョンキュン)さんは当時22歳。貧しいながらも、疲れた旅人などがいると家に呼んで、食事の世話をするという思いやりのある人物だったといいます。 お母さんの高三叔(コ・サムスク)さんは当時20歳。イハンネさんをいつも「ミクルミ」(可愛い子)と呼んで可愛がってくれたそうです。 小学校に通い、日本教育を受け、韓国全土に及ぶ皇民化政策のさなか、韓国語を使うことは禁止されており、日本語を学ぶことに疑問は抱かなかったと言います。(どんな子供だったか) |
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イハンネさんインタビュー Q幼い頃の印象に残っている思い出を教えてください。 |
イハンネさんコメント | |||
あくせく働いている人のイメージ映像 | 小学校卒業後は、職をいくつか転々とし、最後に務めた郵便局も、身に覚えのない盗難事件の責任をとらされ、辞めることになりました。ちょうど次の仕事を探していた時、先輩からこんな誘いがきます。 | |||
黒地に白文字でセリフ(男の声) |
「村役場に南方の捕虜監視員の仕事が来ている。月給50円の2年契約だそうだ。俺も行くからお前も来ないか。」 【資料班:当時の月給50円がいくらなのか調べてください。】 |
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捕虜監視員たちの集合写真 | 捕虜監視員になれば兵役も免除されるという父親の助言もあり、イハンネさんは軍属の採用試験を受け、そして合格しました。当時17歳でした。 | |||
(イハンネさんインタビュー) Q軍に入隊することが決まった時どんな気持ちだったか。 |
(楽観的、家族か悲しがるのが何故かわからなかった。大げさなお婆ちゃん。) | |||
地図ぶ釜山からタイ・ワンヤイへ移動する様子。 【映像班:地図作成】 |
捕虜監視員として軍属になったイハンネさんはまず、野口部隊と呼ばれた部隊で訓練を受けま。。およそ2ヶ月に及ぶ訓練を受けた後の1942年8月釜山港から出航し、タイのワンヤイで泰緬鉄道を建設する捕虜たちの監視にあたります。 | |||
戦場にかける橋(泰緬鉄道) | 泰緬鉄道とは、タイービルマ間415キロメートルを繋いでいた鉄道です。この建設のために連合国軍捕虜約5万5千人が投入されましたが、粗末な衣食住、医薬品の不足、靴などの装備もない過酷な労働環境、ジャングルでの伝染病などのせいでおよそ1万3千人が亡くなりました。このことから、英語圏ではよく「死の鉄路」と呼ばれます。 | |||
戦場にかける橋 ~ブラックアウト |
イハンネさんたち捕虜監視員の仕事は、その建設現場に支持された人数の捕虜を出すこと。たとえ病気の捕虜がいても…etc 【資料班:イハンネさんたちの仕事内容の記述があるものがどっかいっちゃいました!】 |
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玉音放送 | 泰緬鉄道が完成して2年後の1945年8月15日、天皇による玉音放送で日本の敗戦が知らされました。イハンネさんたちのいた、タイの捕虜収容所にも伝えられ、大きな衝撃が走りました。日本の敗戦は祖国の解放を意味し、イハンネさんは自分の帰りを待ちわびる家族の顔を思い浮かべながら帰国の日を待っていたと言います。契約期間の2年間から既に1年以上が経過した、イハンネさんが20歳の時でした。 | |||
鳥が飛んでいる映像 【映像班:頑張って!】 |
帰国を待っていたある日、一つの通達がとどきます。 | |||
黒字に文字のテロップ【映像班】
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「9月28日の夕方までに朝鮮出身者は集合しなさい。集合しないものは処罰する。」 | |||
首実検の映像 【資料班:映像探してください。】 |
彼らの目的は、自分たちを辛い労働に服させ、多くの仲間を死なせた憎き日本軍を逮捕し、戦後裁判にかけることでした。イハンネさんたちは、正式には軍属であり、連合国軍捕虜を統治した軍人ではなかったものの、身近であったために韓国人の監視員たちが憎まれました。 | |||
起訴状があればその写真or人が髪を読んでいる様子 | 起訴状の内容は「管理将校であったにも関わらず、収容所の設備や環境を整備なかった。部下の暴行を放任し、病気の捕虜も就労させた」という内容でした。 | |||
捕虜の映像 |
イハンネさんは管理将校ではなく、責任は明らかに指示を出していた日本人の上官にありました。入隊後すぐの野口部隊での訓練では捕虜統率の方法としてビンタをすることを教えられていました。しかしそれが捕虜にとっての大変な恥辱に値するとは知りませんでした。「上官の命令は絶対」という日本軍の思想のもと、たとえそれが無理難題だったとしても指示に従うしかなかったのです。 |
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イハンネさんインタビュー | Q:逮捕された時の気持ち | |||
ジュネーブ条約の条文 マーカー部のテロップ |
当時、世界ではジュネーブ条約という、捕虜の人道的扱いを定めた条約が存在し、これを日本も承知していましたが、イハンネさんたちにそれが教えられることはありませんでした。むしろ、「生きて虜囚辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」というら軍人精神的な教育のみを受けさせられていたのです。 ですので、ビンタも虐待であるという認識はありませんでした。 |
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(釈放、再逮捕) | ||||
裁判映像 | 裁判はシンガポールにあるチャンギー刑務所で行われました。裁判は英語て行われ、逐一通訳されるわけでなく、よく分からないまま進められたと言います。イハンネさんを告訴した元捕虜たちは誰一人として裁判に出廷せず、彼らに反論することすらできませんでした。事実と異なる起訴内容、慎重に行われなかった裁判に不満を抱えながら判決は出されました。「death by hanging 」死刑です。当時22歳、我々とほとんど変わらない歳でした。 | |||
イハンネさんインタビュー
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Q:死刑判決を受けた時の気持ち | |||
pホール | ||||
釈放証明書
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軍属〇年、チャンギで〇年..1956年.やっと出所
出所後の生活-苦しかった
歳も31、韓国人で就職先がない。
自殺した友人がいた
【資料班:釈放証明書の写真】
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同進交通の映像
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なんとか生活するために、スガモで取得した運転免許証を生かしてイハンネさんは仲間たちとタクシー会社の設立を決意する。しかし、設立のための資金がない。そんなとき、手を差し伸べてくれた日本人がいます。【映像班:同進交通の映像】
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今井さんの写真
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今井知文さん。町で耳鼻科を営んでいた日本人です。
「この度の戦争で一番馬鹿を見たのは貴方たちだ。日本人の一人として申し訳ない。わたしができることがあればなんでも努力したい。」
こうして、彼はイハンネさんたちのために当時の200万円、今でいう2000万円を無担保で貸し付けました。この資金で同進交通が設立されます。
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イハンネさんインタビュー
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今井さんへの気持ち
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同進会の写真や映像
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タクシー会社が軌道に乗った1962年、同進会は政府への請願運動を再開。
1964年には具体的な支給金額のことまで話が進む。
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日韓基本条約締結時の首相同士の映像
条文
質問書
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あと一歩と思ったところで日韓基本条約と請求権協定が発行。問題は解決済みとされる。条約発効以降日本政府は面会にも応じなくなる。自国の大使館に訴えろという対応。日韓条約による対日民間請求権の対象は終戦以前の被害に限定されているため、戦犯裁判における刑死のような戦後の死亡は請求の対象外。議員を通して何度か政府へ質問書を提出したが、どこも日韓条約で解決済みとの回答のみしか返ってこなかった。【資料班:資料集め】
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当時の2人の写真
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一方、この時期に今後の活動に大きくかかわる人物である、内海愛子さん(説明)と出会う。
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内海愛子さんインタビュー
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イハンネさんを知ったきっかけ
当時なぜ協力しようと思ったか
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裁判所の映像(現在)
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内海愛子さんの協力もあり、裁判に踏み切る-仲間がどんどんなくなっていく中、生きているうちになんとか無念を晴らしたいという切羽詰まった気持ちから【映像班:裁判所の映像】
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・本7章冒頭の写真・映像
(裁判資料)
・不当判決の写真(P155 )
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1991年11月12日、裁判開廷。戦犯者148名の代表としてイハンネさんを含めた7名が原告となる。条理に基づく損失補償請求・債務不履行に基づく損害賠償請求・不法行為に基づく謝罪文交付請求・保障立法不作為の違法確認請求 を求める
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前後の繋ぎ
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しかし、1996年9月9日第一審での請求は棄却
判決の最後にかろうじて裁判長が、政府・国会に保障立法を促す
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前後の繋ぎ
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第二審判決は、一審と同じく棄却
一審より一歩踏み込んだ早期の立法措置が期待されるとの裁判長のコメント
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当時の写真か映像があれば...
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1999年12月20日、最高裁での敗訴。
イハンネさんたちの心情は理解することもできるが我が国の条理ではどうすることもできないとの判断から。最年少のイハンネさんが74歳だった。
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イハンネさんインタビュー
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裁判を通して
・仲間たちの無念
・本のまとめ
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同進会の今の活動の様子
・パネルの映像
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裁判では負けたが、活動をあきらめることはしない。立法に向けてまた活動を開始する。2008年には法律案を提出。
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衆議院解散
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2017年の通常国会では与野党横断の議員連盟が立法を支援したため期待が高まっていた。しかし法案が提出できないまま衆議院が解散
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まとめ |
イハンネさんインタビュー
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イハンネさんにとって問題解決とは
今の若者に何を伝えたいか
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イハンネさん(音無しバージョンor年を取ってる感じが伝わる映像)
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イハンネさんは今年で93歳。元は〇人だった同進会。実際に戦争を経験した人はイハンネさんのほかに3人しか残っていない。
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日本と韓国の旗
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戦争経験者が少なくなった今、過去を知り正しく伝えていけるのは私たち若者です。歴史をひとつの視点に捉われることなく多角的に見ることは歴史の真実を知ることに繋がり、そしてそれは真の国際社会人としての第一歩です。〇〇、日韓の問題を捉えなおすいい契機なのではないでしょうか。
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エンディング |
エンドロール
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