Seq. | 映像 | 音声 | 効果音・BGM | ナレーション |
衆議院解散 | 2017年9月28日。通常国会が解散 | |||
イハンネさん | ||||
オープニング |
池袋駅周辺
・「池袋」の名前が入った駅
・若者や家族が歩いている様子
・サンシャイン池袋の外観
|
今日も若者や家族連れで賑わう池袋。
サンシャインシティができる前、この場所に何があったのかみなさんは知っていますか。
|
||
未定 |
未定 |
|||
タイトル |
空(w.飛行機)
木漏れ日
|
|||
概略 |
スガモプリズン
・sugamo prisonの看板
|
スガモプリズンでの概略を説明
→戦時中の戦犯を収監・処刑
|
||
戦時中の映像
・爆弾を落とす映像
|
第二次世界大戦
人員不足により、後のBC級戦犯となる台湾、朝鮮といった植民地からも人が集められた
|
|||
イハンネさん
・現在の映像(音無し)
|
イハンネさん、93歳。彼も徴用された韓国人のうちの一人です。第二次世界大戦中の日本軍軍属です。戦後、連合国軍による戦争裁判で、捕虜虐待の罪に問われた元BC級戦犯です。戦後支払われるべき補償が日本人でないという理由で支払われなかった韓国人。今も日本政府に謝罪と補償を求め続けています。 | |||
生い立をち | 韓国の生まれの土地の映像 |
軽く場所の説明。(子供時代のエピソード)
1925年、日本が韓国を併合した15年後にここで生まれました。
|
||
皇民化政策の映像or写真(日本語教育) |
書堂と呼ばれた学校で日本教育を受ける
|
|||
戦争の映像 |
戦局悪化に伴い植民地からも人員を導入
その中でイハンネさんも捕虜監視員として日本軍に入隊することになります。
|
|||
イハンネさんインタビュー映像 |
入隊後の軍事訓練について
捕虜監視員になった時の感情
どうして捕虜監視員になったのか
|
|||
地図上を船や線で移動させる |
1942年8月に釜山港から出発、サイゴンに到着。タイ俘虜収容所第四分所に所属されます。編集班:地図作制
|
|||
捕虜監視員として |
・泰緬鉄道の映像
・泰緬鉄道の建設現場
・捕虜の生活状況がわかるもの
・やせ細った捕虜
|
タイ、ワンヤイで泰緬鉄道建設にあたる連合国軍捕虜の監視員として業務につきます。仲間4人と共に500人の捕虜監視。
粗末な衣食住、医薬品の不足、装備もない過酷な労働環境、ジャングルの中の伝染病にコレラまで、多くの捕虜が犠牲になりました。東京戦犯裁判の記録によると、米英連合軍捕虜13万2134人のうち3万5756人が死亡し、この中でも悪名高い泰緬鉄道では投入された捕虜4万8296人のうち約30%を超える1万6000人が犠牲となりました。
監視員のほとんどは韓国、朝鮮の青年たちでした。
・裁判での意外性を感じさせるエピソード
・ジュネーブ条約が伝えられなかった
※ここでの彼の収容所での仕事が後の彼の人生に大きく影を落とすことになる。【資料班:映像集め‐泰緬鉄道およびその建設現場、連合国軍捕虜の歩いている映像などの状況が分かるもの】
|
||
玉音放送
|
1945年8月15日、玉音放送で日本の終戦が公知された。イハンネさんのいた捕虜収容所にもそれが伝わり、大きな衝撃が走る。それと同時に軍も解散になる。【資料班:玉音放送時の映像】
|
|||
玉音放送だんだんフェードアウト
|
終戦に伴う祖国の解放に、やっと帰れると喜んだのも束の間、悪い知らせが届きます。元捕虜に訴えられ、戦争裁判にかけられたのです。チャンギ刑務所へ
|
|||
逮捕後 |
手記コピーにスポットライト
|
不起訴になり、釈放される
一度、釈放されたにも関わらず、またチャンギ刑務所に行くことに
イハンネさんの手記「またあの地獄に~」【映像班:映像撮影】
|
||
戦争裁判
チャンギでの裁判
|
裁判にかけられたのです。
【資料班:チャンギ裁判の映像もしくはほかのBC級戦犯の裁判映像】
|
|||
黒字に文字
裁判の判決文
|
判決は「Death by Hanging」死刑です。何歳だったのか
「捕虜の福利維持責任があったが、非人道的取り扱いで捕虜を致死させ肉体的被害を与えた」との理由でした。【資料班:判決文探してください】
|
|||
Pホールの写真orチャンギの写真
|
死刑囚専用の監獄、通称Pホールに移動【資料班:チャンギ、Pホールの写真】
|
|||
手記
|
男声「なぜ日本人として死ななければならないのか~」
|
|||
イハンネさんインタビュー
|
Pホールでの生活
仲間が殺された時の心境
「なぜ日本人として死ななけれならないのか~」
|
|||
日が昇るときの映像or海
|
突然の減刑(元捕虜がサインしなかった)
【映像班:映像撮影】
|
|||
日本 |
横浜港
|
1951年8月27日、初めて日本に上陸。スガモプリズンへ。
【映像班:横浜港撮影】
|
||
スガモプリズン
|
スガモが珍しかったところ
(・畳(なんとも思わなかったけれど))
・食事
・日本人看守
・ラジオ、新聞、図書館
・講座が取れた→運転免許の取得
|
|||
戦後補償問題 |
サンフランシスコ平和条約に署名している映像
|
1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効。日本国籍を失ったため釈放を期待するが、戦時中当時は日本人であったとの理由から釈放されず。刑は日本人として、戦後補償は日本人でないとの理由で対象から排除
|
||
イハンネさんインタビュー
|
当時の気持ち
|
|||
総理に会わせろデモの写真
|
当然納得できないから、活動を開始
同進会-1955年に結成
・早期釈放
・国家補償の要求
・日本人戦犯との差別待遇の撤廃
・出所後の一定期間の生活保障(住宅・就職の斡旋、被服・寝具の支給、一時生活資金の支給、官費による病人の治療並びに療養・家族の生活援護、一時帰国の許可)
を求めた。
出所拒否・自殺した友人の存在
【資料班:デモ・友人の写真】
|
|||
釈放証明書
|
軍属〇年、チャンギで〇年..1956年.やっと出所
出所後の生活-苦しかった
歳も31、韓国人で就職先がない。
自殺した友人がいた
【資料班:釈放証明書の写真】
|
|||
同進交通の映像
|
なんとか生活するために、スガモで取得した運転免許証を生かしてイハンネさんは仲間たちとタクシー会社の設立を決意する。しかし、設立のための資金がない。そんなとき、手を差し伸べてくれた日本人がいます。【映像班:同進交通の映像】
|
|||
今井さんの写真
|
今井知文さん。町で耳鼻科を営んでいた日本人です。
「この度の戦争で一番馬鹿を見たのは貴方たちだ。日本人の一人として申し訳ない。わたしができることがあればなんでも努力したい。」
こうして、彼はイハンネさんたちのために当時の200万円、今でいう2000万円を無担保で貸し付けました。この資金で同進交通が設立されます。
|
|||
イハンネさんインタビュー
|
今井さんへの気持ち
|
|||
同進会の写真や映像
|
タクシー会社が軌道に乗った1962年、同進会は政府への請願運動を再開。
1964年には具体的な支給金額のことまで話が進む。
|
|||
日韓基本条約締結時の首相同士の映像
条文
質問書
|
あと一歩と思ったところで日韓基本条約と請求権協定が発行。問題は解決済みとされる。条約発効以降日本政府は面会にも応じなくなる。自国の大使館に訴えろという対応。日韓条約による対日民間請求権の対象は終戦以前の被害に限定されているため、戦犯裁判における刑死のような戦後の死亡は請求の対象外。議員を通して何度か政府へ質問書を提出したが、どこも日韓条約で解決済みとの回答のみしか返ってこなかった。【資料班:資料集め】
|
|||
当時の2人の写真
|
一方、この時期に今後の活動に大きくかかわる人物である、内海愛子さん(説明)と出会う。
|
|||
内海愛子さんインタビュー
|
イハンネさんを知ったきっかけ
当時なぜ協力しようと思ったか
|
|||
裁判所の映像(現在)
|
内海愛子さんの協力もあり、裁判に踏み切る-仲間がどんどんなくなっていく中、生きているうちになんとか無念を晴らしたいという切羽詰まった気持ちから【映像班:裁判所の映像】
|
|||
・本7章冒頭の写真・映像
(裁判資料)
・不当判決の写真(P155 )
|
1991年11月12日、裁判開廷。戦犯者148名の代表としてイハンネさんを含めた7名が原告となる。条理に基づく損失補償請求・債務不履行に基づく損害賠償請求・不法行為に基づく謝罪文交付請求・保障立法不作為の違法確認請求 を求める
|
|||
前後の繋ぎ
|
しかし、1996年9月9日第一審での請求は棄却
判決の最後にかろうじて裁判長が、政府・国会に保障立法を促す
|
|||
前後の繋ぎ
|
第二審判決は、一審と同じく棄却
一審より一歩踏み込んだ早期の立法措置が期待されるとの裁判長のコメント
|
|||
当時の写真か映像があれば...
|
1999年12月20日、最高裁での敗訴。
イハンネさんたちの心情は理解することもできるが我が国の条理ではどうすることもできないとの判断から。最年少のイハンネさんが74歳だった。
|
|||
イハンネさんインタビュー
|
裁判を通して
・仲間たちの無念
・本のまとめ
|
|||
同進会の今の活動の様子
・パネルの映像
|
裁判では負けたが、活動をあきらめることはしない。立法に向けてまた活動を開始する。2008年には法律案を提出。
|
|||
衆議院解散
|
2017年の通常国会では与野党横断の議員連盟が立法を支援したため期待が高まっていた。しかし法案が提出できないまま衆議院が解散
|
|||
まとめ |
イハンネさんインタビュー
|
イハンネさんにとって問題解決とは
今の若者に何を伝えたいか
|
||
イハンネさん(音無しバージョンor年を取ってる感じが伝わる映像)
|
イハンネさんは今年で93歳。元は〇人だった同進会。実際に戦争を経験した人はイハンネさんのほかに3人しか残っていない。
|
|||
日本と韓国の旗
|
戦争経験者が少なくなった今、過去を知り正しく伝えていけるのは私たち若者です。歴史をひとつの視点に捉われることなく多角的に見ることは歴史の真実を知ることに繋がり、そしてそれは真の国際社会人としての第一歩です。〇〇、日韓の問題を捉えなおすいい契機なのではないでしょうか。
|
|||
エンディング |
エンドロール
|