Seq. | 映像 | 音声 | 効果音・BGM | ナレーション |
オープニング | 衆議院解散 | 2017年9月28日、解散詔書が読み上げられ、衆議院が解散しました。今年度予定されていた法案の審議は、全て先送りになりました。その一つに、BC級戦犯に対する「特別給付金の支給に関する法律案」があります。1965年の日韓基本条約によって両国間の問題は全て解決済みとされました。しかし、その裏には隠された不条理が存在します。 | ||
イハンネさん(無音) |
イハンネさん、92歳。戦時中に日本軍の軍属として従事した韓国人の一人です。 |
|||
軍属集合写真 | 軍属とは、看護師や通訳などの、軍人ではないものの、軍に属する人たちのことを指し、イハンネさんはこのうちの捕虜監視員として、17歳の頃から三年間、従事しました。 | |||
巣鴨プリズン |
軍人ではないのにも関わらず、戦後の戦争裁判では捕虜虐待の罪に問われ、死刑宣告を受けます。当時、22歳でした。その後、減刑されたものの、同じように死刑宣告を受けた多くの友人は刑を執行されました。 |
|||
会議中の映像
・国会
|
イハンネさんたちのような戦時中の植民地出身の戦犯者たちはサンフランシスコ平和条約締結時に日本国籍を失っています。その為、日本人の戦争犯罪人、およびその家族が受けていた年金や生活援助を受けられませんでした。 |
|||
イハンネさん
|
戦後、日本人でないという理由で補償を受けられなかった韓国人。今も日本政府に謝罪と補償を求め続けています。 |
|||
日本の旗
|
教科書では学ぶことのなかったもう一つの歴史。私たちがここから学べることはなんなのでしょうか。 |
|||
タイトル | 戦後補償に潜む不条理~韓国人元VC級戦犯の闘い | |||
承 イハンネさんの生い立ち |
イハンネさんは、日本韓国併合から15年後の1925年に全羅南道で生まれました。朝鮮半島全土に及ぶ皇民化教育のさなか、小学校では韓国語を使うことは禁止されていました。そのため、日本語を学ぶことに疑問は抱かなかったといいます。 |
|||
小学校卒業後は、職をいくつか転々とし、最後に勤めた郵便局も、身に覚えのない盗難事件の責任を取らされ、辞めることになりました。ちょうど次の仕事を探していた時、先輩からこんな誘いがきます。 | ||||
黒字に文字でセリフ | 「村役場に南方の捕虜監視員の仕事が来ている。月給50年の2か年契約だそうだ。俺も行くからお前も来ないか。」 | |||
捕虜監視員たちの集合写真 | 捕虜監視員になれば兵役も免除されるという父親の助言もあり、イハンネさんは軍属の採用試験を受け、合格しました。当時17歳でした。 | |||
イハンネさんインタビュー Q:軍に入隊することが決まった時どんな気持ちだったか |
18:54~
「捕虜監視で2カ年契約なら戦地でもないと、だから軍隊に行くよりは良いんじゃないかということで軍属に応募したわけですけどね。」
|
|||
地図ぶ釜山からタイ・ワンヤイへ移動する様子 【映像班:地図作成】 |
捕虜監視員として軍属になったイハンネさんはまず、野口部隊という部隊でおよそ二カ月間訓練を受けました。そして1942年8月、釜山港から出港し、タイのワンヤイで泰緬鉄道を建設する捕虜たちの監視にあたります。 | |||
戦場にかける橋(泰緬鉄道) | 泰緬鉄道とは、タイ‐ビルマ間415キロメートルを繋ぐために建設が進められていた鉄道です。そこには連合国軍捕虜約5万5千人が投入されましたが、食料や医薬品が不足する中、過酷な労働とジャングルでの伝染病によって、そのうちの約1万3千人が亡くなりました。 | |||
戦場にかける橋 ~ブラックアウト |
工事が急ピッチで進められる中、イハンネさんたち捕虜監視員は、軍に命じられるまま、栄養失調や病気に苦しむ捕虜たちを建設現場へと送り出さざるを得ませんでした。
|
|||
玉音放送 |
泰緬鉄道が完成して2年後の1945年8月15日、天皇による玉音放送がが流れ、日本は終戦を迎えます。それは、イハンネさんたちのいたタイの捕虜収容所にも伝えられました。終戦は祖国の解放を意味します。自分の帰りを待ちわびる家族の顔を思い浮かべながら帰国の日を待っていました。契約期間の2年間から既に1年以上が経過した、イハンネさんが20歳の時でした。
|
|||
鳥が飛んでいる映像 |
帰国を待っていたある日、一つの通達が届きます。
|
|||
黒に白地テロップ
|
「9月28日の夕方までに朝鮮出身者は集合しなさい。集合しないものは処罰する。」 | |||
連合国軍による軍事裁判が始まったのです。過酷な労働によって多くの連合国軍捕虜を死に追いやった日本軍の責任が追求されました。イハンネさんは、捕虜監視員として連合国軍捕虜と直接接する立場にいたために憎悪の的となってしまいました。 |
||||
起訴状があればその写真or人が髪を読んでいる様子 | 起訴状は、「収容所の責任者であったにもかかわらず、収容所の設備や環境を整備しなかった。部下の暴行を放任し、病気の捕虜も就労させた」という内容でした。 | |||
捕虜の映像 | イハンネさんは責任者ではなく、責任は明らかに指示を出していた日本人の上官にありました。入隊後すぐの野口部隊での訓練では、捕虜統率の方法としてビンタをすることを教えられていました。しかしそれが捕虜にとっての大変な恥辱に値するとは知りませんでした。「上官の命令は絶対」という日本軍の思想のもと、たとえそれが無理難題だったとしても指示に従うしかなかったのです。 | |||
ジュネーブ条約の条文 マーカー部のテロップ |
「『戦陣訓』恥を知るものは強し。生きて虜囚辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」 |
「生きて虜囚の辱めを受けず、ho教育されていました。しかし、国際社会では捕虜を人道的に扱うことを定めたジュネーブ条約が存在しました。日本もその存在を認知していましたが、イハンネさんたちにそれが教えられることはありませんでした。 |
||
裁判映像
|
裁判は、シンガポールにあるチャンギ刑務所で開かれた。英語で行われ、内容が逐一通訳されるわけではなく、よくわからないまま進められたと言う。イハンネさんを告訴した元捕虜たちは誰一人として裁判に出廷せず、彼らに反論することすらできなかった。事実と異なる起訴内容、慎重に行われなかった裁判に不満を抱えながら判決は出された。「Death by hanging」死刑だ。当時22歳、我々とほとんど変わらない年齢だった。 | |||
イハンネさんインタビュー
|
21:39~21:49 「戦犯に問われて死刑判決を受けて、それは到底考えてもいなかったことなんですね。」 |
|||
pホール | 死刑宣告を受けたイハンネさんは、通常の監獄とは離れた死刑囚専用の監獄、Pホールに移された。Pホールの監房のすぐ近くには絞首台があり、死刑執行時にはその音が部屋まで聞こえてきたそうだ。 | |||
イハンネさんインタビュー
Q:仲間が死刑になった時の気持ち
|
1:11:13~1:11:37 「国のために死んでいくんだというような気持の慰めというか、心の慰めっていうか、そういった気持ちが日本人の死刑囚にはあったんですよ。でも私の仲間たちはそういった気持ちのね、心の慰めはできなかった。」 |
|||
絞首台 ~ブラックアウト |
この裁判で死刑宣告を受けた多くのひとを見送った。とうとうイハンネさんが最後のひとり、いよいよ自分の番だと覚悟を決めたその時、予想外なことが告げられた。死刑は執行されず、20年に減刑になったのだ。
|
|||
横浜港 |
|
|||
巣鴨拘置所の中での暮らしは、それまでとは違い比較的自由なものでした。半日の服役作業が終われば、勉強したり、本を読んだりすることが許されていました。イハンネさんは出所後の生活に備えて運転免許を取得しました。
|
||||
サンフランシスコ平和条約調印時の映像
|
1952年、サンフランシスコ平和条約が発効し、日本は主権を回復しました。
イハンネさんたちも、この条約の発効とともに日本国籍を失いました。
ところが、裁判当時、日本国籍であったという理由で釈放は許されず、その一方、軍人恩給制度の復活で日本人の戦犯やその遺族たちが恩給や扶助料の受ける中、イハンネさんたち日本国籍でなくなったという理由でこの制度の適用外とされてしまいました。
|
|||
新聞の自殺記事
|
このため生活に困窮し、自殺まで追い込まれた仲間もいました。BC級戦犯になったことで故国に帰ることもできず、身寄りも生活の糧もない日本での暮らしに絶望したからです。
|
|||
同進会の写真
政府へのでも写真
|
こうした不条理をなくすため、イハンネさんたちは同じ朝鮮半島出身者70名とともに同進会を結成し、日本政府に対し補償を求める請願運動を開始します。
|
|||
今井さんの写真
|
こうした中、新たな出会いもありました。
今井知文さん。都内で耳鼻科を開業していた日本人医師です。
巣鴨拘置所に慰問に訪れた際、イハンネさんたちのことを知った今井さんは、こういったといいます。
「この度の戦争で一番馬鹿を見たのは貴方たちだ。日本人の一人として申し訳ない。わたしができることがあればなんでも努力したい。」 |
|||
同進交通の映像
|
こうして今井さんが用意してくれた200万円、いまでいえば2000万円にも相当する資金をもとに、イハンネさんたちは巣鴨拘置所で身につけた運転免許や整備技術を活かし、タクシー会社設立します。
|
|||
イハンネさんインタビュー
|
今井さんへの気持ち
|
|||
同進会の写真や映像
|
タクシー会社が軌道に乗った1962年、同進会は再び日本政府への請願運動を開始します。1964年には具体的な支給金額のことまで話が進みました。
|
|||
日韓基本条約締結時の首相同士の映像
条文
質問書
|
ところが1965年、日本と韓国の国交正常化の際、日韓基本条約とともに結ばれた日韓請求権協定によって、両国間の戦後補償問題は「完全かつ最終的に解決された」とされ、これ以降、日本政府はイハンネさんたちの訴えに応じなくなりました。
|
|||
当時の2人の写真
|
仕事に追われる中、いつしか時が経ち、仲間の間では一番若かったイハンネさんも50代になりました。そうした中、また新たな出会いがありました。研究者の内海愛子さんが同進会を訪ねてきたのです。
|
|||
内海愛子さんインタビュー
|
イハンネさんを知ったきっかけ
当時なぜ協力しようと思ったか
|
|||
裁判所の映像(現在)
|
内海愛子さんの協力もあり、イハンネさんたちの活動の舞台は、政府への請願から司法での裁判に切り替わりました。
仲間の高齢化進み、一人一人と亡くなっていく中、生きているうちになんとか仲間たちの無念を晴らしたいという気持ちからでした。
|
|||
・本7章冒頭の写真・映像
(裁判資料)
・不当判決の写真(P155 )
|
1991年11月12日、裁判が始まりました。戦犯者148名の代表としてイハンネさんを含めた7名が原告となり、政府に対して条理に基づく謝罪と補償を求めたのです。
|
|||
前後の繋ぎ
|
しかし、1996年の東京地裁判決では請求は棄却。98年の東京高裁判決も同じく棄却。99年の最高裁判決で敗訴が確定しました。
|
|||
前後の繋ぎ
|
しかし、判決の中で裁判所は「国政関与者において、この問題の早期解決を図るため適切な立法措置を講ずることが期待される」と、立法府の対応を促す意見を出しました。
|
|||
イハンネさんインタビュー
|
いまイハンネさんたちは活動の舞台を立法府である国会に移し、新たな法案の成立をめざしています。
|
|||
衆議院解散
|
イハンネさんたちの活動は、与野党を越えた超党派の議員たちの賛同を得て、「特定連合国裁判被拘禁者等に対する特別給付金の支給に関する法律案」という法案にまとめられ、国会への提出に向けて準備が進められています。
|
|||
まとめ | パネル展示会でのイハンネさんの映像 |
日本の教育では歴史の陰にかくれたこうした事実について学ぶことはほとんどありません。しかし心のよりどころも見出せぬまま死んでいった仲間の思いを晴らすため、イハンネさんたちはいまもその活動を続けているのです。
|
||
イハンネさんフリートーク40分ころ
|
「日本人は好き。相手の立場になって考えてほしい。」 | いまの若者に伝えたいことは?という私たちの質問に、イハンネさんはこう答えてくれました。 | ||
今井さんとイハンネさんのツーショット | 「相手の立場になって考える」。それはあらゆる問題を解決するためのカギとなる知恵でしょう。 | |||
今井氏が贈った絵 | 「くに敗れて友情湧く」。イハンネさんたちへの不条理な扱いにいち早く気づき、手を差し伸べた今井知文医師が贈った絵。イハンネさんはこの絵をいまも大切にしています。 | |||
日の出
エンドロール
|