Seq |
映像 |
音声(13.50分) |
効果音・BGM |
ナレーション |
修正案 |
オープニング |
国連総会で可決した時 |
27 |
|
2017年7月7日、国連総会で核兵器禁止条約が122の国と地域の賛成多数により採択されました。しかし、ロシアやアメリカをはじめとする核保有国や、その抑止力に依存する日本、韓国などは参加しませんでした。 |
修正なし |
原爆投下 |
24
|
|
1945年8月、アジア・太平洋戦争の末期、広島・長崎に原子爆弾が投下されました。核兵器が人類に対して初めて使用された被害国として、日本は世界に知られることになります。 |
修正なし |
|
平和記念公園 |
25 |
|
広島平和記念公園。 (毎年、原爆による死没者を弔い、世界の平和を祈る「平和記念式典」が開かれる) この公園には、原爆ドームや平和記念資料館など、原爆の悲惨さを伝える建物が並んでいます。 |
修正なし |
|
韓国人原爆犠牲者慰霊碑 |
13 |
|
その近くに、訪れる人がほとんどいない一つの慰霊碑があります。韓国人原爆犠牲者慰霊碑です。 |
修正なし |
|
20世紀初頭の朝鮮半島 |
62 |
|
1910年、韓国併合により、急速な近代化政策が推し進められる中、土地調査事業で生活基盤を失った人々や、労働力不足を補うために徴用された人々が、日本本土に渡ります。 |
修正なし |
|
原爆投下後のヒロシマの映像 |
|
1944年に内務省警保局が行った調査によれば、当時広島や長崎に暮らしていた朝鮮半島出身者はあわせて14万人。原爆投下により、このうちの7万人が被爆したといわれています。広島・長崎の被爆者の総数は約69万人。被爆者の10人に1人が朝鮮半島出身者だったのです。 |
「の」を追加 |
||
広島記念公園の日本国旗 |
43 |
|
1950年代に入り、日本国内では被爆者への医療支援が始まります。しかし、朝鮮半島にもどった約2万3千人の被爆者には、支援の手が差し伸べられることはありませんでした。 |
修正なし |
|
国会 |
|
「同じ被爆者なのになぜ?」 韓国の被爆者たちは原爆の後遺症に苦しみながらも、平等な援助を求めて立ち上がります。 今も韓国に生きる被爆者たち。その73年の歩みを振り返ります。 |
「の」を削除し、「。」に |
||
|
タイトル「韓国のヒロシマ・ハプチョンからの想い〜日韓間で揺れた在韓被爆者〜」 |
15 |
|
|
|
ハプチョンへの道のり |
飛行機 |
117 |
|
韓国に暮らす被爆者たちは、戦後どのように生きてきたのでしょうか。その声を聞くため、私たちは今年10月、韓国へ向かいました。 |
「に」を削除し、「、」に |
大邱空港の外観 |
|
韓国第三の都市・大邱(テグ)。 |
「ここは、」を削除 |
||
バスからの風景
|
|
向かう先は、ここからバスで1時間半。人口約5万人の陝川です。
|
ここからバスで1時間半ほど行ったところに、人口5万人ほどの小さな町があります。 |
||
ハプチョンの風景 |
|
ここは在韓被爆者が最も多く住んでいる地域で、「韓国のヒロシマ」とも呼ばれています。 |
被爆者が最も多く暮らすところから「韓国のヒロシマ」とも呼ばれる陝川(ハプチョン)です。 |
||
シムさんの出迎え
|
|
私たちはバスを降り、歩いて10分ほどのところにある原爆被害者福祉会館へ向かいました。(シムさんの説明:私たちを出迎えてくれたのは、韓国原爆被害者協会のハプチョン支部会長を務めているシム・ジンテさん。シムさん自身も2歳のころに広島で被爆しました。) |
「ところにある」を追加 |
||
原爆被害者福祉会館 |
|
現在、原爆被害者福祉会館が設立され、当時の被爆者を含む101名がここで生活をしています。ここは、原爆の後遺症によって生活が困難になった方々が医療支援を受けながら住む事の出来る施設です。 |
ここは原爆の後遺症に苦しむ人々が、医療支援を受けながら暮らすことのできる施設で、現在被爆一世を含む101名が暮らしています。 |
||
慰霊閣の外観 |
|
会館の裏には、慰霊閣があります。ここには、亡くなったハプチョン出身の在韓被爆者の方々が祀られています。 |
施設の裏に建つ慰霊閣。ここにはハプチョン出身の被爆者の霊が祀られています。 |
||
|
|
この日、私たち実際には4人の被爆者のお話を伺うことが出来ました。 |
この日、私たちはこの施設に暮らす4人の被爆者からお話を伺うことが出来ました。 |
||
広島に渡ったきっかけ
|
イルジョさん インタビュー |
20 |
|
(イルジョさん説明:キム・イルジョさん現在90歳、京都で生まれ、2歳の時に広島へ移り住み、17歳の時に被爆しました。) イルジョさんが広島に渡ったきっかけをこう語ってくれました。
「広島に来てからずっと商売したんですよ。(朝早く十日市へ行ってまた品物持ってきて売ったりね、)韓国人相手に。やっぱり三菱製造所があるから、あそこに韓国人がたくさん暮らしていたんですその当時ね。」 |
キム・イルジョさん、90歳。 キムさんは京都で生まれ、2歳の時に商売を営む両親とともに広島へ移りました。 「広島に来てからずっと商売したんですよ。(朝早く十日市へ行ってまた品物持ってきて売ったりね、)韓国人相手に。やっぱり三菱製造所があるから、あそこに韓国人がたくさん暮らしていたんですその当時ね。」
※名前を言う場合、初回は姓・名、二回目以降は姓だけに統一してはどうでしょうか? |
|
音声なしで映像のみ |
15 |
|
当時の広島市には三菱重工業の造船所などがあり、日本の主要軍事都市だったことから徴用で日本に渡る朝鮮人もいました。 |
軍事都市であった広島には、三菱重工業など多くの軍需工場がありました。長引く戦争で働き手を失った工場には、出稼ぎや徴用によって朝鮮半島から渡ってきた多くの人々が暮らしていました。 |
|
キムさんインタビュー映像 |
17 |
|
平和なエピソード:「喧嘩して「朝鮮人のくせに」何かそんなことがあったら、大きい子供たちが来て怒る、どうして朝鮮人はここへきて暮らしているんだ。と言ったら子供たちは逃げてしまう。そういうのは何回も見ましたけどね。日本の人は差別をしたり、いやなことをいう人はいなかった。」
|
ときに子供同士の喧嘩はあったものの、日本人と朝鮮の人々は平和に暮らしていたといいます。 「喧嘩して「朝鮮人のくせに」何かそんなことがあったら、大きい子供たちが来て怒る、どうして朝鮮人はここへきて暮らしているんだ。と言ったら子供たちは逃げてしまう。そういうのは何回も見ましたけどね。日本の人は差別をしたり、いやなことをいう人はいなかった。」 |
投下後の焼け野原
|
|
原爆によってこの平和な生活が一変したのです |
しかし、そうした広島の町は一瞬にして廃墟と化します。1945年8月6日、原爆が投下されたのです。 |
||
アンさんインタビュー映像 |
|
悲惨なエピソード:怪我のエピソード 「アンウォルソンさん現在88歳、15歳の時に広島で被爆しました」
「私と家族9人じゃったけど、その年の昭和20年1月26日に生まれた妹がおりました。その妹はその日に家潰れる時そこで下敷きになってその日に亡くなったし、ほいでお父さんとお母さんは私を探した後に全部病気になった。うちのお父さんは血を吐き出したり、便をしたら全部血が出して、ほいで薬はないし・・・・・」 |
アン・ウォルソンさん、88歳。当時15歳だったアンさんは、原爆が投下された時のようすを、いまも鮮明に記憶しています。 「私と家族9人じゃったけど、その年の昭和20年1月26日に生まれた妹がおりました。その妹はその日に家潰れる時そこで下敷きになってその日に亡くなったし、ほいでお父さんとお母さんは私を探した後に全部病気になった。うちのお父さんは血を吐き出したり、便をしたら全部血が出して、ほいで薬はないし・・・・・」 |
||
|
重光葵がポツダム宣言調印
韓国解放
|
26 |
|
原爆投下からわずか9日後の8月15日、日本の「ポツダム宣言」受諾による無条件降伏で、朝鮮半島は植民地支配から解放されました。しかしその歓喜の裏で、在韓被爆者の戦いは続いていました。 |
原爆投下からわずか9日後の8月15日、戦争は終わりました。日本が「ポツダム宣言」を受諾したことにより、朝鮮半島はその支配から解放されました。しかしその歓喜の裏で、被爆者たちの苦闘は続いていました。
※日本がポツダム宣言を受諾したのは8月14日です |
|
イさんの帰国エピソード |
15 |
|
原爆から生き延びた朝鮮人約3万人のうち約2万3千人が、被爆した体で独立を果たした祖国へと帰っていきました。
「イ・スヨンさん現在90歳、7歳の時に母に連れられ広島へ移住しました」
イさん: 「そこでお兄さんが「韓国に帰んなさい」と言うて、闇の船に乗って帰ったんですよ。今も私は後遺症で、ストッキングをはいているの両足。腫れている、両足。それで、韓国に帰ったし。」 |
「と」を追加
イ・スヨンさん90歳。イさんは7歳の時に母に連れられ広島へ渡りました。?歳で被爆したイさんは、韓国に帰国した時のようすをこう語ります。
「私が「お母さん」と言うて行ったら、お母さんが、(私が)幽霊のようにして行ったから血だらけになって、だからわからないの。自分の娘だけどわからなくなって、目が(を)まんまるくして(私を)見つめているだけ。私は涙を流しながら「お母さんお母さん」言うたら、お母さんが気がついたそうね。「あぁお前が生きていたんか」と言うて。そこで私のお兄さんが「韓国に帰る」と、「日本にいたらアメリカ人が来て女性は全部連れてくからだめだ、韓国に帰んなさい」と言うて、闇の船に乗って帰ったんですよ。」
※イさんのケガをした時のようすが抜けているので、上記のようにインタビュー映像を補足してはどうでしょうか? |
|
イさんの足 |
5 |
|
実際に足を見せてくださいました。 |
こうしてイさんは韓国に帰国しました。爆風で重傷を負った足は、後遺症のため、いまも腫れたままだといいます。 |
|
朝鮮戦争 |
16 |
|
さらにその5年後に朝鮮戦争が始まり、3年に及んだ戦争と、その後の冷戦の中で在韓被爆者の認識は遅れていくのです。
|
終戦から5年後、朝鮮半島ではまた新たな戦争が始まります。東西両陣営の代理戦争となった朝鮮戦争です。3年に及んだ戦争とその後の冷戦の中で、被爆者たちは必要な治療や支援も受けられないまま放置されることになります。 |
|
被爆者健康手帳 (映像or写真) |
28 |
|
日本では1957年に「原爆医療法」が制定されました。広島・長崎の原爆被害者であることが認定されれば、この「被爆者健康手帳」が交付され、国の負担で健康診断と原爆症の治療が受けられるようになりました。 |
一方、日本国内では1957年に「原爆医療法」が制定され、被爆者であることが認定されれば、「被爆者健康手帳」が交付され、国の負担で健康診断と原爆症の治療が受けられるようになりました。 |
|
国会
|
64 |
|
終戦から20年後の1965年、韓国との国交正常化が実現します。その際に結ばれた「日韓請求権協定」によって「(日韓両)国及びその国民の間の請求権に関する問題」は「完全かつ最終的に解決されたこと」が確認されました。 |
修正なし |
シム・ジンテさんが資料館で怒りの部分 |
|
しかし、この交渉の中で、韓国の被爆者への補償が議論されることはありませんでした。これに憤りを感じた在韓被爆者たちは、1967年、韓国原爆被害者協会を立ち上げます。
韓国原爆被害者協会は日本政府に日本人被爆者と同等の援助を与えるよう求めます。 |
しかし、この交渉の中で、韓国の被爆者への補償が議論されることはありませんでした。「同じ被爆者なのになぜ放置されるのか」韓国の被爆者たちは、1967年、韓国原爆被害者協会を立ち上げ、日本政府に日本人被爆者と同等の支援を行うよう求めます。 |
||
|
シム・ジンテさんの怒りの部分 |
40 |
|
1968年、日本ではさらに被爆者の生活を支援するための手当支給を定めた「原爆特別措置法」が制定されます。 しかし、「原爆医療法」「原爆特別措置法」この二つの法律の適用については、居住の本拠地が日本国内であることが前提とされていたため、韓国の被爆者が「被爆者手帳」を受け、医療費の支援や生活費の手当を受けることはできませんでした。 |
1968年、日本国内ではさらに被爆者の生活を支援するための手当支給を定めた「原爆特別措置法」が制定されます。 しかし、「原爆医療法」と「原爆特別措置法」はともに居住の本拠地が日本国内であることが前提とされていたため、韓国の被爆者が「被爆者手帳」を受け、医療費の支援や生活費の手当を受けることはできませんでした。 |
|
ソン・ジンドウ(孫振斗)さんの写真 |
|
|
|
そうした中、なんとかして「被爆者手帳」を受けようと日本に渡った被爆者がいます。ソン・ジンドウ(孫振斗)さんです。 日本に生まれ、韓国語もほとんどできなかったソンさんは、戦後も日本に暮らしていました。ところが、朝鮮戦争さなかの1951年、ソンさんは韓国に強制送還されてしまいます。原爆の後遺症に苦しむソンさんは、治療を受けるため、やむをえず密航という形で日本に戻ります。 |
|
旧福岡県庁舎 |
|
|
|
しかし、福岡県に出されたソンさんの申請は却下されてしまいます。困ったソンさんは、1972年、福岡県と厚生省を相手取り、被爆者手帳の申請却下の取り消しを求める訴訟を起こします。 |
|
最高裁判所 |
|
|
|
1978年、最高裁はソンさんの訴えを認める判決を下します。「『原爆医療法』は、被爆による健康上の障害の特異性と重大性のゆえに、その救済について内外人を区別すべきではない」との判断を示したのです。 |
|
(現)厚生労働省 |
27 |
|
そうした中1974年、旧厚生省はある通達を出しました。402号通達です。これは、在韓被爆者が日本で手帳を取得しても、韓国に帰国すると医療費と被爆者手当の支給も打ち切られてしまうという内容です。 |
※この時期、一番大切なのはソン・ジンドウ(孫振斗)さんの裁判です。このため、この部分は上記のものに差し替えた方がよいのではないでしょうか? |
|
キムさんのインタビュー |
0 |
|
(キム・イルジョさんが証言合わせエピソード) 「人によって、あの証人がすぐおったら一か月目にすぐ行く人もおるし、何か月しても(証人と)口が合わなかったらね、こういう言葉はこういう必ず良いことは話さなくてね、 要らんこと喋ったりしたら口が合わんでしょ? 一か月目にかかる人は、自分の親戚とかね、(自分のことを)よう知ってる人は口合わせが合う人はね、いったりしました。」 |
|
|
|
6 |
|
このように手帳の取得が難しい状況 が続くのです。 |
|
|
広島 二個 |
52 |
|
1990年5月24日に行われた日韓首脳会談で、日本政府は在韓被爆者に対し医療支援金40億円を拠出することを明らかにしました。40億円で韓国内での治療費が支給されるようにはなったものの、日本ほど適切で満足のいく治療は依然として受けられませんでした。そのため日本での治療を望む在韓被爆者が後を絶たなかったのです。しかし多くの在韓被爆者は生活が苦しく、日本へ治療を受けに行くことは困難でした。 |
1980年代の末、韓国の民主化が進むと、被爆者問題もようやく日韓両政府の政治課題として取り上げられるようになります。 1990年5月24日に行われた日韓首脳会談で、日本政府は在韓被爆者に対し医療支援金40億円を拠出することを決めました(以下削除) |
|
|
11 |
|
在韓被爆者は原爆の後遺症と貧困という二重の苦しみを負わなければならなかったのです。 |
この資金をもとに1996年には原爆の後遺症と貧困に苦しむ被爆者たちの治療と生活を支援するための施設が開設されます。それがこの陜川原爆被害者福祉会館です。 |
|
カクキフン(郭貴勲)さん写真 |
|
|
|
しかし、韓国の被爆者が日本国内の被爆者と同等の支援を受けることはできませんでした。ソン・ジンドウさんの裁判により「被爆者手帳」を受けることはできるようになったのですが、この裁判さなかの1974年に厚生省が出した「402号通達」により、「旧原爆特別措置法に基づく健康管理手当は海外に居住した場合に受給権を失う」ことが指示されていたからです。 これに対し、新たな訴訟が起こります。訴えを起こしたのは、学徒動員で徴兵され、広島で被爆したカクキフン(郭貴勲)さんでした。 |
|
新聞記事 |
43 |
|
長年在韓被爆者を苦しめてきた402号通達の違憲性が2002年に行われた裁判(郭貴勲裁判)で認められ、2003年に402号通達が廃止になり、2008年韓国での手帳交付が可能になりました。そして2015年には最高裁判所の判決により在韓被爆者にも日本国内の被爆者と同等の医療費の全額支給が認められます。
|
2002年、最高裁はカクさんの訴えを認める判決を下します。「402号通達」は「国の担当者が、原爆二法の解釈を間違えた違法な内容」であると判断したのです。 これにより2003年には「402号通達」が廃止になり、2008年には韓国での手帳交付が可能になりました。そして2015年には遂に韓国に居住する被爆者にも日本国内の被爆者と同じように医療費の全額支給が認められたのです。 |
|
原爆資料館の外観
資料館の中の写真
皆がシムさんの話を聞いている姿
|
26 |
|
2017年8月6日、シム・ジンテさんは念願の夢であった韓国初の原爆資料館をオープンさせました。 原爆資料館には陜川在住被爆者の証言や被爆者の持ち物、在韓被爆者の歴史をたどった年表が展示されています。 シムさん: 「社会はこれからも生きていくのです。社会が生き残れば、おそらく私たちが死んでいなくなった後も、その社会が生き残れば、その方たちが絶対的にこのように無視されず、見過ごされないはずです。文字で遺産を残さなければいけないのです。」 |
2017年8月6日、シム・ジンテさんは念願の夢であった韓国初の原爆資料館をオープンさせました。 原爆資料館にはハプチョン(陜川)在住の被爆者の証言や被爆者の持ち物、在韓被爆者の歴史を紹介した年表が展示されています。 シムさん: 「(私たちの)社会はこれからも続いていきます。社会が続いていけば、私たちが死んで後も、けっして私たちのことを忘れることはないはずです。そのためにも文字で記録を残さなければいけないのです。」
※シムさんの言葉は字幕にしますから、直訳ではなく、意味の通りやすい訳文にする必要があるでしょう |
|
|
31 |
|
「唯一の被爆国、日本」という認識は在韓被爆者の存在を見落とした認識でしょう。私たちは日本人が受けた被害については歴史として学びました。しかし同じときに同じ場所で同じような被害を受けた人が他にもいるという事実は広くは知られていません。 |
「唯一の被爆国、日本」という言葉があります。しかし、あのキノコ雲の下にはそれまでともに暮らしていた7万人もの朝鮮半島の出身者がいました。 韓国に暮らす被爆者たちは、戦後70年を経て、いまようやく日本の被爆者たちと同等の支援を受けることができるようになったのです。
※ナレーションは客観的に |
|
シムさん インタビュー
|
0 |
|
(明るい未来のために、政府が和解して国会は民族同士、また世界的にも親睦を深めていき、実際は過去を忘れられる、そんな世界が来たらいいですね。)
シムさん:これからは私たちが共に大きな社会、後世が平和でなくてはなりません。そして戦争のない国。戦争のことを考えてみると核兵器が大きな障害物になります。核兵器がある限り、平和はないと考えます。
世界が本当に平和になって、空飛ぶ鳥のようにパスポートがなくても日本に行けるようになり、アメリカにもいけるようになる。このように自由な世界を作らなければなりません。 |
シムさん:これからは私たちがともに世界、そして未来を平和なものにしなくてはなりません。戦争のない国を考えるとき、核兵器はその大きな障害となっています。核兵器がある限り、平和はないのです。
世界が本当に平和になり、鳥のように日本へもアメリカへもいけるようになる。そんな自由な世界を作らなければなりません。 |
|
|
46 |
|
今もなお核兵器は存在しています。この現状で、核兵器がまた使用される可能性は十分考えられます。 在韓被爆者の問題は遠い過去の話ではなく、ますます今日的で身近な問題となっています。 この映像作品が、在韓被爆者の歴史に興味を持ち、同じ悲劇を繰り返さないための端緒となりますように。 そしてこの映像を見てくださった皆さんの心に、平和への祈りが広がりますように。 |
昨年、国連では核兵器禁止条約が採択されました。しかし、いまも世界には1万5千基近くの核兵器が存在します。 核兵器が国境を越え、いかに多くの人々を、いかに長く苦しめるものか。韓国の被爆者たちはいまその思いを、世界のそして未来の人々へと伝えようとしています。
※ナレーションはあくまでも客観的に。 |