1. 構成表(初稿): リビジョン

最終更新: (更新者 鈴木 靖

 

Seq

映像

音声

効果音・BGM

ナレーション

修正案

オープニング

①原爆投下

②広島平和記念公園

③韓国人原爆犠牲者慰霊碑

 

 

1945年8月、第二次世界大戦の最中広島・長崎に原子爆弾が投下されました。これ以降、日本は人類に対して初めて核兵器が使用された被害国として世界に知られることになります。

毎年、原爆による死没者を弔い、世界の平和を祈るための「平和記念式典」が行われる広島市平和記念公園。原爆ドームや平和記念資料館など、戦争当時の悲惨さを訴える建造物が数多くあります。そんな平和記念資料館から歩いて10分も経たないところに、韓国人原爆犠牲者慰霊碑があるのを知る人はどれだけいるのでしょうか。

 1945年8月、アジア太平洋戦争の末期、広島・長崎に原子爆弾が投下されました。人類に対して初めて核兵器が使用された被害国として日本は世界に知られることになります。

 広島平和記念公園。毎年、原爆による死没者を弔い、世界の平和を祈る「平和記念式典」が開かれるこの公園には、原爆ドームや平和記念資料館など、原爆の悲惨さを伝える建物が並んでいます。

 その近くに、訪れる人もほとんどいないもう一つの慰霊碑があります。韓国人原爆犠牲者慰霊碑です。

 

⚠️視聴者の中には、さまざまな考え方の人がいます。反感を持たれぬよう、事実だけを丁寧に紹介し、共感力を喚起するようにしましょう。

 

 

 

1910年、日本は朝鮮を植民地化します。植民地統治下で朝鮮総督府は、「土地調査事業」による土地収奪を行い、東洋拓殖株式会社などの日本人地主に土地を安く払い下げることで、日本人の朝鮮進出を促進します。その結果、多くの朝鮮農民が小作農に転落し、農村が破壊されていく一因となります。また米の増産計画を実行しますが、日本へ輸出される割合が大きくなり、朝鮮人の口に入る分は減っていくのです。多くの朝鮮人たちは生活基盤を失い、仕事を求めて日本に渡っていきます。韓国原爆被害者援護協会が1972年に示した推計によれば、原爆投下時、広島市、長崎市合わせて7万人もの朝鮮人が異国の地、日本で被爆し、この中の4万人が爆死したといいます。被爆者の10人に1人が朝鮮人だったのです。

 

 1910年、韓国併合条約により、日本は朝鮮半島をその支配下に置きます。急速な近代化政策が推し進められる中、土地調査事業で生活基盤を失った人々や、労働力不足を補うために徴用された人々が、日本本土に渡ります。

 1944年に内務省警保局が行った調査によれば、当時広島や長崎に暮らしていた朝鮮半島の出身者はあわせて14万人。原爆投下により、このうちの7万人が被爆したといいます。広島・長崎の被爆者総数は約69万人。被爆者の10人に1人が朝鮮半島の出身者だったのです。

 

⚠️韓国併合の合法性とその評価については、政府間でも研究者の間でも意見の大きく分かれるところです。どのような意見を持つ人にも反感を持たれぬよう、中立的な表現を心がけるようにしましょう。

 

 

 

「唯一の被爆国」日本。世界に向けてこう唱える裏には、私たちが知らない事実があります。在韓被爆者の境遇から何か学べることがあるのではないでしょうか。

 1950年代に入り、日本国内では被爆者への医療支援が始まります。しかし、朝鮮半島にもどった約2万3千人の被爆者には支援の手が差し伸べられることはありませんでした。「同じ被爆者なのになぜ?」韓国の被爆者たちは原爆の後遺症に苦しみながらも、平等な支援を求めて立ち上がります。

 いまも韓国に生きる被爆者たち。「韓国のヒロシマ」と呼ばれる陝川(ハプチョン)を訪ね、その73年の歩みを振り返ります。

 

⚠️オープニングでは、まず視聴者の関心を引きつけることが大切です。お説教がましい表現は避け、続きを見てみたいと思わせるようにしましょう。

 

 

 

①飛行機からの映像

②大邱のバスステーション

③陝川へのバス

④原爆被害者福祉会館

韓国、大邱空港。向かう先は、ここからバスで1時間半の場所にある慶尚南道陝川郡です。

ここは在韓被爆者が最も多く住んでいる地域で、韓国のヒロシマとも呼ばれています。現在、原爆被害者福祉会館が設立され、当時の被爆者を含む101人が生活をしています。会館の裏には、陝川出身の原爆犠牲者が眠る慰霊閣があります。私たちは実際に被爆者の生の声を聞きにいきました。

 韓国に暮らす被爆者たちは、戦後どのように生きてきたのでしょうか。その声を聞くため、私たちは今年10月韓国に向かいました。

 韓国第三の都市・大邱(テグ)。「韓国のヒロシマ」と呼ばれる陝川(ハプチョン)は、ここからバスで一時間半ほどの距離にあります。

 1996年に建設された原爆被害者福祉会館。ここにはいまも後遺症に苦しむ被爆者ら101人が暮らしています。

 

⚠️視聴者にあまりなじみのない場所を紹介する時には、唐突な感じを与えないように、そこまでのルートを追体験させるようにしましょう

 

 

 

 

(なぜ広島に渡ったきっかけ②)

 

 キム・イルチョさん、?歳。キムさんは、戦前ご主人とともに日本に渡り、広島で暮らしていました。

 

⚠️人を登場させる時には、視聴者に唐突な感じを与えないように、簡単な紹介を行いましょう

 

 

 

 

生活のために日本に渡った在韓被爆者。「日本へ行って稼げば今よりはましな暮らしができるかもしれない」、そう期待を寄せるしか他に生きる道がありませんでした。

 

 

 

 

 

(広島に渡ったきっかけ① キムイルチョさんの旦那)

 

 

 

 

 

 

当時の広島市には三菱重工業の造船所などがあり、日本の主要軍事都市だったことから徴用で日本に渡る朝鮮人もいました。

 

そして、8月6日広島に原爆が投下されました。

 

 

 

 

 

 

 

(怪我のエピソード アンウォルソンさん)

『あの時頭巾を被っていれば自分の顔に傷は残らなかった。』

 

 

  アン・ウォルソンさん、?歳。アンさんは?歳の時、広島で被爆し、顔や体に大きな傷を負いました。

 

 

 

 

原爆投下からわずか9日後の8月15日、日本の「ポツダム宣言」受諾による無条件降伏で、朝鮮は36年にも及ぶ植民地支配から解放されました。しかしそれと同時に、在韓被爆者にとっての苦難の日々が始まるのです。

 

 

 

 

 

原爆から生き延びた朝鮮人約3万人のうち約2万3千人が、被爆した体で独立を果たした祖国へ帰っていきました。

 

 

 

 

 

 

しかし祖国にたどり着いたところで治療費を払う余裕などありません。またたとえ病院に行くことができたとしても、原爆症とその治療法について知る医者がいない状況でした。

 

 

 

 

 

(ガラスが刺さったエピソード アンウォルソンさん)

 

 

 

 

 

 

さらにその5年後に朝鮮戦争が始まり、社会が混乱する中、在韓被爆者の存在は世間から見捨てられていくのです。

終戦から5年後、朝鮮半島は再び戦火に襲われます。ソ連や中国の支援を受けた北朝鮮と、米国を中心とする国連軍の支援を受けた韓国との間で、戦争が始まったのです。3年に及んだ戦争と、その後の冷戦の中で、韓国社会には被爆者を支援する余裕はありませんでした。

 

⚠️「見捨てられ」といった表現は反発を招く恐れがあるので、なぜそうなったのか、歴史的な背景を丁寧に説明しましょう。

 

 

 

 

原爆投下から実に20年の月日が経った1965年6月22日、韓国との国交正常化に際し結ばれた「日韓基本条約」、「日韓請求権および経済協力協定」の中には在韓被爆者の補償に関する項目はどこにもありませんでした。在韓被爆者問題が議論されることを期待していた人々にとって、それはあまりにも残酷すぎる結果でした。

声を上げないまま死を待つことはできないと1967年、在韓被爆者で韓国原爆被害者協会を立ち上げます。

 

 終戦から20年後の1965年、韓国との国交正常化が実現します。その際に結ばれた「日韓請求権協定」によって「(日韓両)国及びその国民の間の請求権に関する問題」は「完全かつ最終的に解決されたこと」が確認されました。

 しかし、この交渉の中で、韓国の被爆者への補償が議論されることはありませんでした。

 このまま黙って死を待つことはできない。1967年、被爆者たちは韓国原爆被害者協会を起ち上げます。

 

 

 

 

 

日本では原爆投下から12年経った1957年に原爆医療法が制定されます。広島・長崎の原爆被害者であることが認定されると「被爆者健康手帳」が交付され、国の負担で健康診断と原爆症の治療が受けられるようになりました。協会は日本政府に在韓被爆者も日本人被爆者と同様の補償と援護を要求します。

 

 

 日本では原爆投下から12年経った1957年に「原爆医療法」が制定されます。広島・長崎の原爆被害者であることが認定されれば、「被爆者健康手帳」が交付され、国の負担で健康診断と原爆症の治療が受けられるようになりました。

 韓国原爆被害者協会は日本政府に日本人被爆者と同等の援護を与えるよう求めます。

 

 

 

 

日本では1968520日、被爆者の生活を援護するための手当支給を定めた「原爆特別措置法」を制定しました。しかし、「原爆医療法、原爆特別措置法の適用については、居住の本拠が日本にあることが前提」とされたのです。日本で治療を受けようと渡日した在韓被爆者は「一時入国の外国人」とみなされ手帳は交付されませんでした。

 1968年になると、日本ではさらに被爆者の生活を支援するための手当支給を定めた「原爆特別措置法」が制定されます。

 しかし、この二つの法律の適用については、居住の本拠地が日本国内であることが前提とされていたため、韓国の被爆者が「被爆者手帳」を受け、医療費の支援や生活費の手当を受けることはできませんでした。

 

 

 

 

現在、協会の陜川支部会長を務めているシムジンテさん。シムジンテさん自身も2歳の頃に広島で被爆しました。

 

 

 

 

 

 

(ジンテさんの補償と援護を要求に関する何かしらのインタビュー)

 

 

 

 

 

 

 

そうした中1974年、日本での治療の道が開かれる兆しが見えました。日韓基本条約後初となる在韓被爆者の手帳取得です。日本人被爆者と同等の援護を受ける権利が与えられたと歓喜に沸くニュースだったでしょう。ところが日本政府は援護策が韓国で適用されることのないようある声明を発表します。402号通達です。

この通達により、たとえ在韓被爆者が日本で手帳を取得しても、韓国に帰国してしまえば医療費の支給も被爆者手当の支給も打ち切られてしまうのです。韓国内では手帳はいわば紙切れ同然です。

 

 

 

 

 

 

(402号通達についての怒りだったらここにインタビュー挿入 シムジンテさん)

 

 

 

 

 

 

1979年在韓被爆者も日本に行けば手帳を手に入れられるようになりました。しかし原爆被害者だと認定されるには証言者を探さなければならず、手帳取得が依然として難しいのが現実でした。 

 

 

 

 

 

 

(キムイルジョさんが証人探してあげたエピソード)

 

 

 

 

 

 

1990年5月24日に行われた日韓首脳会談で、日本政府は在韓被爆者に対し医療支援金40億円を拠出することを明らかにしました。私たちが訪れた陜川原爆被害者福祉会館は、この40億円の支援金で建てられたものです。40億円で韓国内での治療費が支給されるようにはなったものの、日本ほど適切で満足のいく治療は依然として受けられないことから渡日治療を望む人が後を絶ちませんでした。しかし多くの韓国人被爆者が生活難の状況で、渡日治療までをも援助しようとするならば40億円はあまりにも少なすぎる金額でした。あくまでも40億円は補償ではなく人道的支援で、両国間の戦後補償問題は全て解決済みであるという姿勢を崩すことはありませんでした。

 

 

 

 

 

 

韓国人被爆者は原爆の後遺症と貧困という二重の苦しみを負わなければならなかったのです。

 

 

 

 

 

 

渡日治療が大変であるインタビューがあればここに挿入)

 

 

 

 

 

 

 

2003年に402号通達廃止、2008年韓国で手帳交付が可能に、2010年原爆症認定の「来日要件」撤廃、そして2015年には最高裁判所の判決により在外被爆者にも日本国内の被爆者と同等の医療費の全額支給が認められます。

 

 

 

 

 

 

去年、シムジンテさんは念願の夢であった韓国初の原爆資料館をオープンさせました。

原爆資料館には陜川在住被爆者の証言や被爆者の持ち物、在韓被爆者の歴史をたどった年表が展示されています。資料館の中央にある4段に重なる明かりは、原爆が落とされたときにできたキノコ雲を表しているそうです。

 

(鳩山由紀夫元首相も来館)

 

 

 

 

 

 

『被害者の実体験の話を聞ける機会が減っている今、後世に跡を残さなければならない』

 

 

 

 

 

 

 

 

「唯一の被爆国、日本」という認識は在韓被爆者の存在を見落とした認識でしょう。私たちは日本人が受けた被害については歴史として学びましたが、同じときに同じ場所で同じような被害を受けた人が他にもいるという事実は広くは知られていません。韓国にも、今なお原爆被害によって苦しんでいる人がいることを私たちは知る必要があります。今回インタビューした方々は、当時、日本で生まれ日本語を話し、日本で生活し、日本で教育をうけていました。彼らはたしかに「日本人」として生きていました。

 

⚠️韓国の原爆被害者が訴えているのは、補償の問題だけなのでしょうか?また、私たちにとって原爆は単なる過去の歴史に過ぎないのでしょうか?

 昨年7月、国連で核兵器の開発・保有・使用などを法的に禁止する核兵器禁止条約が採択されました。こうした新たな潮流と関連付けて番組を締めくくってはどうでしょうか。

 

 

 

 

(映像:「差別はなかった」)

 

植民地統治の時代、在韓被爆者の方が日本人として生きてきた状況を考えたときに、彼らが日本に補償を求める思い(弱い)を理解することができるのではないでしょうか。

国籍や民族という枠組みを超えて、1人の人間として相手に寄り添う。それは、これから国際社会の中で生きる私たちにとって重要な考え方なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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