アンウォルソンさんインタビュー: リビジョン

最終更新: (更新者 鈴木 靖

アン・ウォルソンさんインタビュー

 

 女性、被爆時16歳、軍人らの米支給所で働いていて正門のところで被爆

 

(始め~47秒)韓国語

(47秒~1分11秒)戦争は日本で先始まりました。それはもう戦争は日本ではあの時は負けとったんです。負けとった。どうして負けとったと言ったら敵は毎日日本の空には毎日とんどりました。

(1分11秒~)毎日敵は日本の空にとんどっても日本ではそれをかまわんといけなかったのです。自分の勝手でね爆弾を落としたりああいう風にしても日本はあれをかまわない?といけなかったんです。ほいでまた昭和天皇は大阪?爆弾落としても広島は敵の飛行機が通っても爆弾落ちなかったです。
(1分50秒~)ほいで、昭和天皇が(は)納得がつきましたから。広島へ十人が残るまで手は上げない?、戦争はずっとつづいて手は上げない?ほいじゃけど私見たままの昭和20年4月の17日は韓国語?落としましたよ、飛行機がその日600体?できました。わたし防空壕にはいって飛行機が五台ずつ並んでて、カラスのようにね飛行機が五台ずつ並んでいきよるそれを防空壕の中でずっと数えてみたらね600体とおりました?ほしてね
(2分57秒~3分9秒)(韓国語)
(3分10秒~)ほいでまた4月の17、23にちには広島駅一つ上のほう呉れというところがあります。そこは水兵さんがおる。陸軍もおらんしね。
(3分34秒~3分41秒)韓国語
(3分42秒~)そこを、その日23日の夜の9時から朝の4時まで爆弾を落としました。ひこうきがね落とすときに爆弾を落とすときにはすごい下がって落とした後にサーっと上がったりね私らそれをずーっと見とったんですその日ね、爆弾落とすの終わるまで夜の九時から朝の四時までそれをずっと見とったんです。ほいでも日本は何ともしなかった?何もすることがないのが何もないわけね?ああいう風に日本は戦争負けとったんです。負けとったけれども、ああいう風に負けとっても昭和天皇は手をあげんのよ。ほいで8月の6日の朝の8時ちょうどに?15分?(正午)?爆弾おとしたでしょ、私はあの時に15歳まではあそんどりましたけど16歳にとなりの(韓国語)あの人が、あなたあそんどったら、でんしんでに?かかりますってどこかに外に行かないっていってた。ほいで私陸軍の百姓そこの米は陸軍だけ持ってきました。そこ外におりましたあの時そこ三か月いってましたまあね私そこ出て三か月目にあの8月の6日のあさに飛行機はb29は毎日空には飛んでいますよ。飛んでるけどその日朝6時に空襲は警戒はじめましたってまた6時30分ごろになったらまた空襲始まりましたってまた7時になったら空襲解除になりました。で飛行機は毎日飛んでるのに7時ごろにはまた空襲解除になりました。今は警戒警報っみたいって。
(6分11秒~)私そこ会社行くのに朝7時20分頃に家出てるのよ。ほいで解除になった後にでました。もう空襲になった時には電車も動かんけえね。行ったら人がようけならんどるのよね。ほいで私の?あたった時に電車乗って会社の前まで行きました。そこいったらあんときに私ら黒い筋をつけて?防空壕の部族の?綿を入れてぬってかぶすのよ、こう目だけ出してるようにできる、ほいで綿入れて黒いきじ?でぬってかぶしてそのまま携帯カバー外して?っていうこと聞いたけどそのまま私かぶって入りました。はいったらそこは男性の高校生の男性30人がまたてんしんてい?にきてね夜に男性の学生は夜にきて仕事しました。で夜に仕事して朝に帰ろうおもおてね
(7分44秒)(韓国語)そこで(韓国語)そんときにはそこはいってね、あの会社はいってはじめ行ったときには事務所に自分の名前の札がありますよ。それを会社ついた時には札を私の名前が出るようにかける、ほいで家帰るときにまた名前見えないようにかける?ふせる?その札を表に出るようにしよう思ってけんがん?おそおもったその前に防空頭巾をかぶっていくのにもう学生が全部ね解除になったのに防空頭巾かぶってくるって笑いよるのよ。その防空頭巾をそのまましとったら私はこんなふうにけがはしなかったですよ。学生が笑うために帽子をぬいでね、手をもとのようにおちた?のよ、二分ぐらい私がかぶっとってもケガしなかったんですよ。今は全部私傷よ全部。その防空頭巾を脱いだために全部大変?だったのよ。そいで玄関のガラスは太い?じゃない、そこで私は全部また、前の会社は仕事する会社は二階やったき事務所は一階じゃったんです。それは香港?の建物よ会社は木の家だったけど国民の家は全部つぶれてそこで私は下敷きになったのよ。下敷きになったときに学生たち全部、このへんなのに暗くて全然見えないねえねえねえ、どこかねこのへんじゃのに、わたしも家がつぶれたときには原爆きいたこともないけいねずっと爆弾落とすときにはしょりゅうだん?かおとすだけ、聞いたこともそんときなかったじゃけ私が入ってるその建物だけつぶれたとおもって、で助けてくださいと大きな声でよびました。そん時に学生がこのへんなのにくらくて全然見えない、どうしてくらいかねとおもった。
(11分12秒)ほいで学生が私の足を踏んだのよ、ほいであここだ足を踏みましたていうてほいで足を引っ張って取る時引っ張る時にここのところぜんぶガラスがいっぱいはいって?ねここも玄関の太いガラスがあるねこんなのがここはいって足も大きく切って?ほういでひっぱってて、外に私引っ張って出したとき全部?しまったそいで私(韓国語)だしたそのままそこ寝とってねて道路に人が通る時に私をちり?の上まで連れて行ってくださいずっとわらいました?二時間ぐらい過ぎた後に私が会社の下に飛行場がありました。そこ飛行場へ陸軍がよくおりました。ほいで陸軍がたんかもってきてそれでまたつれていくところもないのよね、町は全部火だけね。ほいで飛行場の飛行機のはねのしたに?とったんです。それはあつかった、暑いのに飛行機の羽の下に寝とったら?暑くて水も飲みたいし暑いしもう死ぬ方がほんと楽だったです。しなれられんけね、ほいで水を少しください、水をくださいっていっても水もないのよね全部、水もないし夜になって全部またケガした人が患者さんが少し軽い人は先に連れて行くのよね船に、先に連れて行ってけがよくしたひとは全然後にいくのよね、ほいで船のって行きましたどこかしらんけど、朝起きてみたら似島という所そこはやっぱし軍隊が住んでいるところだったんです。全部下は(韓国語)全部血だらけ患者さんそこで死んじゃった人またつれてって(韓国語)ほいで(韓国語)あの、朝のご飯があれもないじゃないね、茶碗もないけいね竹を切ってそこに全部ジャガイモ入れて少しおかゆを少し注いでほいで昼になったときに治療してください治療してくださいっていうたらそれ私の目に見ては治療したくなかったんです。バケツに水半分ぐらいもってきてね、赤チン、ろーとちんぎん?じゃなくて赤チン、赤いのあるじゃないあれをこんぐらいの瓶もってきてそこに水に一緒に混ぜてねそれをつけてくれるのよ。患者さん多いけど治療してくださいとおらるひと全部じゃないけど薬がないからね、わたしはあれはつけない水が入ったら膿みますから私は治療しないって、でそのままほっとってもそこで一生家族は私が勤めるその会社の前の広島はうみがおおいけね川で私ぐらいの学生がよおきしんどるけそこずっとさがしてね似島まで行ったと思ってない、ほいじゃけ似島までは探してこないしそこで毎日探しとった。ほいで朝ごはん食べてそこで死んだ人を送って行ったりおくってみたりお昼になったらね(韓国語)そのくさった、?指が引っ付いて離れなかったです。ほいで一週間になるその日の朝に朝の四時ぐらいにここにしろしこいまち?の人おりませんかといって私はここその日まで知らなかったです。にしろしこいまちの人?おりませんか言うてここにおりますって話をしようと思ったら声ができなかった。ここいたくてね。大きい声でこえが?それで横の人にあの人呼んでください、それで横の人がよんでくれて私にしろしこいまちおります言うて、お前のお父さんの名前はなんだって、そのあと一郎です言うた。わしの友達じゃ、お前の父さんはわしの友達じゃいって、はい家帰ってすぐ?ほいじゃけどお父さんは朝ごはん食べてあの人はまたそこで船のって広島市まで出るのに時間がよくかかるじゃないほいじゃけお父さんとあわれんのよ、ほいでお父さんは昼の二時ごろに来ました。昼の二時ごろにきてまたかしふねをかしてほいでひろしまでてそこで広島でくさつ?というとこ行って小学校言ってそこで初めて治療するのよ、この髪が全部まえにこうさがって血が全部ついててそのまま乾いて、ほいで髪全部きっていったらここも全部ガラスだしここも全部ガラス、お父さんが探しに来るときに友達とお父さんが五人着ました。一緒に来た人に手を引いてみなさいそこの私を治療する人がてをこうひいとったらここでガラスとったならこのぐらい、ほいじゃけどガラスが3つのこっとったんです。韓国帰る時にああいう風にとってもほいでここもガラス入っとったしここもがらすはいっとった3つじゃなく4つ入っとるしほいで17年にはじめて私ら韓国帰ってもすぐに戦争始まったし韓国で?何も顔つけたことがないですよ17年に初めて韓国で?クリームというのにであったとき?にこうやって初めてとんとん?クリームをつけました。その時になにかここあたるじゃないなにかとおもってみたらずっと固いのがあたるじゃないほいで病院行ってみたらガラスがここはいってるのよ。(韓国語)ここもぬいてここもぬいてここもぬいたけどここのはほっぺた?にはいっとって、こうくびのここはいっとってここも治ったしここへはえとるけえだすあれができないよ、ここはえてるのまたここきらにゃガラスだされんけはじめてとにちろ?に長崎に84年に長崎の原爆病院にいってここガラスとりました。そこの先生が、あーどこきってガラスを出すかな、ほんと難しいって、この辺きって失敗しました、だされないのよ。あーここじゃできない先生ここ切りなさい私が先生ここ切った方が一番いいよなかたちですよ(韓国語)ここきりなさい、ここきってガラスを取りました三角になって大きかったんですよ。ガラスをとって今はもう普通はそんなに醜くないけど写真をとったらば(韓国語)ほいでそこでまあケガしたのはあんまり治療を早くしなかったがために身がくさって治らんのよ、いまはにほんの学生もそれをしらんし先生もそんなことをしらなかったんです(~23分13秒)
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23分03秒〜
今は日本の学生もそれを知らんし、あの、先生もそんなことをよお知らなかったんです。
(韓国語)
本当の身じゃなしに、あれはそのままほっとったら、らい病になる。全部顔にああいうのが出る、本当の治って身が出るって言っても赤い様なやけどあれは白いあれだって、それを治そうに薬もないし、日本でも薬はないけん、あの妹の便をいつも毎日、便をしまって、水につけて、
(韓国語)
それを焼いてあれをつけました。あれをつけたらね1ヶ月程さ。1日に2回するのよね。午前中につけてまた昼になったらまたつけたりしても。1ヶ月くらいしたらすこーしくらい赤い身が出るのよね。あれ白い身あれすこーしなくなった。あれを治すのに1年以上かかりました。韓国帰って、韓国へ私らは10月の中頃に韓国に帰りました。韓国に10月の中頃に帰る時も私の傷は治らなかったんです。あん時も足も治らなかったし、ほいで韓国に来る時も私は杖で韓国に帰りました。16歳の若い年で包帯をこういう風にね全部包帯をかぶって、そのまま帰りました。ほいでも家族も全部は帰らなかったんです。私ら家族は9人じゃったんです。妹が2人、弟が3人、おばあさんがいました。ほいでお母さんお父さんがいて、ほいで私と家族9人じゃったけど、その年の昭和20年1月26日に生まれた妹がおりました。その妹はその日に家潰れる時そこで下敷きになってその日に亡くなったし、ほいでお父さんとお母さんは私を探した後に全部病気になった。うちのお父さんは血を吐き出したり、便をしたら全部血が出して、ほいで薬はないし、おばあさんが毎日山へ行ってなんかの薬を取ってきてね、木の皮を引っ張り、なんか持ってきて、それをお父さんに叩いてねそれを水をつけてお父さんに飲ましたりしよった。お父さんが全部は帰られんけん半分はここ残って半分は韓国帰れって。わしは行かれんけん、わしはお母さんと子供2人とここ残るけん、また子供3人とお母さんとじゃあ4人が帰りなさいって。ここおったら全部死ぬって、あん時まだね、(韓国語ヨンギド?)あれ韓国で、日本人と韓国におる人、韓国人が全部ものをとったり、とって日本にまた(〜) あん時に全部日本の人はええになったんよ。ほじゃけえ、そして日本に帰った人がまた日本に来て韓国人そこ日本におる人全部殺そうとして、大変なことがあったんです。ほいでここおったら全部死ぬるけんです。街ではそげなことなかっても、田舎ではあげなことが毎回起こったんです。私らも街じゃけんそんなことなかったけど。お父さんがここにおったら全部まだ死ぬるかも知らんけん、半分帰って半分おるって言ってて。ほいで、妹1人と弟1人とお母さんと私と韓国帰って、そこにはおばあさんとお父さんと弟2人残った。ほいであのそれ、私ら10月に帰ったのに、お父さんとおばあさんとは来年の3月に韓国に来ましたよ。来る時にお父さん治って来ました。ほいで、わあ大変だ、治って来たらちゃんと大変だと思ったけど、そうじゃなしに、まあ2年ぐらいおったら新しい病気になってね、今その時にはなんの病気か知らなかったけど、胃のかん(癌?)の、あん時はあんまり悪い空気をまあよく飲んだけんね、痩せて痩せて、あの痩せて竹のように痩せて会いに来て、亡くなりました。亡くなって、お母さんも、お母さんは帰って5年くらいおって亡くなったし、お父さんは3年ぐらいおって亡くなりました。

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私は帰った後にまたやっぱし、あの原爆私のように怪我した人と一緒に結婚しました。帰った後にすぐ結婚しました。まあ妹にも結婚しない時もうお父さんお母さん全部亡くなりました。今は日本で85年にまた、84年に長崎の原爆堂に行って、また85年にまた広島の(かみやきちょう?)の方にかわむらという病院があります。そこ行って市民病院で手術をしました。そこで手術して、病気怪我、傷がようなったけど、日本の手術はできなかったんです、日本では。ほいで韓国でまだ私が40歳すぎて50歳すぎて、まだ私が長崎行く時が53歳か4歳あん時に行ったけど、私がここ日本手術するのは60歳すぎてしたような気がする。今は日本手術して病気ようなったんです。ようなったけど、写真撮ったら、ここえらい入るけん。まあ弟2人や韓国帰った人もまあ全部亡くなったし、お姉さんは、お姉さんは、私のお姉さんがいました。あれは日本で結婚しました。日本で結婚しましたけど、お姉さんも原爆落ちたところと1.5、私も1.5。お姉さんはあのカナダへ行きましたけど、そこで癌の手術を6回しました。癌の手術を6回して、7回目に癌だった時にはそこの担当はね、手術しんでそのままに楽にいくようにしましょうって、ほんで手術せんにそのままになんです。癌、癌、癌がまああの肺がんになったり、色々癌にできるのよ、ほじゃけど、韓国じゃったら、ああいうに手術しても長生きができないけど、やっぱしカナダにか、今は韓国もいいけど、10年20年前はそうじゃなかったけんね、カナダのトロントにおったけん、そこでその担当が、全部そこは癌の人の私もこう行ってみたけど、その病院は全部癌の人の手術をしましたよ。うちの姉さんもそこで6回して7回目にはそこの担当の先生が、まあ今は楽にそのまんまに行くように、手術せんとにそのまんまにいくようにしましょうゆうて、ほいで楽になりました。うちらの弟2人は病気と病気なったけど病院行かずにそのまんまに亡くなったし、もうそんなに病気が酷くもなかったのに、まあ運が悪かったような(?)。まあ運ですそれが。まああんまり今時間経ったけどこれくらいで終わりましょうね。

「質問」
手帳84年にそこであの〜(韓国語)

5分31秒
なんの町なんの町覚えとるけんね。

「質問」
(韓国語)
6分20秒
人がようけおるとき、私は右に通る時にね、私がまっすぐ行けばいいのにここ2、3人おったら途中で曲がる。こっから1人回って行くのよね。人がおるところは行かなかったです。今はこう手術をよくしましたけんね。あの時まあ人見るのが一番きつかったです。
(韓国語)
7分6秒
子どもの友達が来たら私は家の中で隠れてた。

「質問 若者に伝えたいこと」
(韓国語)
8分58秒
今まで50年60年が過ぎてても〜
(韓国語)
9分31秒
今まで韓国で独島を守っとったのに、今に日本の人が、日本の人があの、1人1人おった時には本当に優しいしいい人よ、ほじゃけど政府であんまりいつもなんか、自分の国ってね。今独島も政府で言うならそれは違いますそれは。独島は70前その前まで、私ら韓国の人が守っとったってってんです。守ったけど。今に来てね独島と自分の国というところは今、2、30年前からその話をしますよ。その前には全然なんの話はなかったんです。ずっとそれは韓国で守りました。けど今になって独島が自分の国だって、あれは戦争の初めよ。それは戦争の初めよ。ほいじゃけ、教科書、日本で今学生の教科書も独島は(日本だと結んでる?)あれダメよ。あれ戦争の初めよ。戦争の初め。
(韓国語)
日本も楽じゃしね、仲良くに(韓国語?)一番いいよ。仲良くに。
日本の人は優しいし、また本当民間人と会った時には優しいしいい人よ。ほじゃけど政府から全部ねいつも自分の国って。独島は今まで韓国で守ったのに、今に出て独島は自分の国という。あれ戦争の初めじゃけんね。ほいでまた学校の教科書、あれ学校の本ね。またあれも独島が日本の国と言って出すのは、あれは戦争の初めよ。ほじゃけあげなことないように、戦争ないように、仲良くに暮らす方が一番楽ですよ。両方戦争したらあっちの人もこっちの人も全部また人がようけ亡くなるけん。
(韓国語)

 

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