中国の文化Ⅲ(日中文化交流史)

最終更新: (更新者 鈴木 靖

【授業のテーマ】

 二千年以上に及ぶ交流の中で、中国の人々は日本にどのようなイメージを持ってきたのか。絵画や写真、文献などの資料を通じて、古代から現在までの対日イメージの変遷を概観し、そこから何を学ぶことができるか考える。

 

【授業の到達目標】

 中国とい鏡に映し出された自己像を歴史的に振り返ることにより、私たちは「国際社会人」としてどのように判断し、行動すべきかを考える力を身につける。

 

【授業の概要と方法】

 授業は、講義によって行う。

 

【授業外に行うべき学習活動(準備学習等)】

 毎回、授業の前に掲示板を通じてPDFの資料をこのページで配布する。

 

【テキスト】

 毎回、授業の後にこのページを通じてPDFの資料を配布する。

 http://fic.xsrv.jp/elgg/pages/edit/879

 

【参考書】

  • 木宮泰彦『日華文化交流史』(冨山房、1955年)
  • 王勇『中国史のなかの日本像』(農山漁村文化協会、2000年)
  • 王暁秋著・木田知生訳『中日文化交流史話』(日本エディタースクール出版部、2000年)
  • 柳本通彦『台湾・霧社に生きる』(現代書館、1996年)
  • 服部龍二『日中国交正常化 - 田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』(中公新書、2011年)
  • 孫崎享『日本の国境問題』(ちくま新書、2012年)

 

【成績評価基準】

 成績は以下の2つをもとに評価する。

  • リアクションペーパー(その回の授業内容をまとめ、意見や感想を書いてください)
  • 期末レポート(下記参照)

 

期末レポートについて

テーマ:この授業で扱った問題に関する書籍または論文を読み、その内容を要約し、あなたの考えを書いてください

文字数:2000字以上

書 式:A4用紙に横書きで両面印刷

提出日:最終授業時に提出

参 考: レポートのサンプル 

 

【授業計画】 クリックすると各回の資料ページが開きます

月日 テーマ
1 4/13 日本人とは?
人類史の視点から“人種”、“民族”を考える
2 20 (1世紀~6世紀)日本語文化圏“倭”の登場
 六世紀初めの倭人が描かれた絵巻物、南朝梁蕭繹『職貢図』を通じて、中国の人々の古代日本のイメージについて考える
3 27

(6世紀末)朝貢から外交へ
 東海に浮かぶ一朝貢国に過ぎなかった倭は、隋がおよそ二百七十年ぶりに中国全土を統一したのを機に、使節を送り、対等な外交関係を模索する

4 5/11

(6世紀末)朝貢から外交へ(続)

5 5/18

(7世紀~9世紀)遣唐使の時代
 倭は中国の先進的な制度や文化を学ぶため、多くの学生や学僧を中国に派遣する。留学生たちの活躍により、中国の人々の間にはどのような対日イメージが作られていったのだろうか

6 25 (9世紀~13世紀)民間交流の時代へ
 唐の衰退により遣唐使の派遣を停止した日本は、やがて民族文字である「かな」に代表される独自の文化や技術を生み出していく
7 6/1 (13世紀~14世紀)元寇
 唐王朝の滅亡後、東アジアは征服王朝の時代を迎える。モンゴルがユーラシア大陸を席捲する中、日本も白村江の戦い以来の大規模な対外戦争=元寇に襲われる。
8 8

(15世紀~16世紀)倭寇と遣明使

 南北朝の争乱に始まった室町時代、日本を拠点する武装集団が朝鮮半島や中国沿海部を襲うようになる。東アジアの人々の対日イメージを180度変える最初の原因となった倭寇である。モンゴルを駆逐して漢民族王朝を復興した明は、倭寇対策のため民間貿易を禁じ、朝貢貿易への一本化を行う。

9 15

(16世紀末)豊臣秀吉の朝鮮出兵

 朝鮮半島や中国沿海部を襲った倭寇に続き、1592年から前後7年に及んだ豊臣秀吉の朝鮮出兵は、東アジアの人々に日本に対する負の記憶を刻み込む。朝鮮出兵の際、日本へ拉致された被虜人(捕虜)を通じて、朱子学が伝えられると、江戸幕府はこれを武士の正学と定め、平和で秩序ある社会を再構築した。また被虜人となった朝鮮の陶工たちは日本に磁器の生産技術を伝えた。

10 22

(20世紀初)魯迅と藤野先生

 近代中国を代表する作家・魯迅が日本留学時代の恩師の思い出を書いた小説「藤野先生」。中国ではいまも中学校用教科書に収録され、毎年1600万以上の中学生がこの作品を通じて日中友好の大切さを学んでいる。

11 29

(1920~30年代)霧社事件

 日清戦争の勝利により最初の植民地・台湾を獲得した日本。漢民族の抵抗運動を鎮圧し、植民地経営も軌道に乗ったと思われた1930年、山地に住む先住民が突如叛旗を翻した。「霧社事件」と呼ばれるこの戦いは、テレビドラマや映画を通じて、いまも台湾の人々に語りつがれている。

12 7/6

(1930~40年代)李香蘭が見た戦時下のポップカルチャー

 旧満州(中国東北部)に生まれた山口淑子は、日本の国策会社・満州映画協会の専属女優となり、李香蘭の芸名で銀幕やステージで活躍するが、戦後、その活動が問題視され、漢奸裁判にかけられる。戦時下、プロパガンダに利用されたポップカルチャーについて考える。

13 13

(1952~72)日中国交正常化と「二分論」

 1950年6月、北朝鮮の侵攻によって始まった朝鮮戦争は、11月に中国が参戦したことで、西側(資本主義)と、東側(社会主義)の両陣営による代理戦争へと発展した。アジアでの東側(社会主義)の勢力拡大を恐れた米国は、台湾の国民政府に日本との早期講和を求め、52年、日華平和条約が締結された。一方、東西冷戦の中、日本との早期講和を求めた中国政府は、「二分論」によって国民の理解を求め、72年の国交正常化を実現する。しかし、この「二分論」に対する日中双方の認識の違いが、やがて両国民の間に新たな対立を生じさせることになる。

14 20

(1972~現在)現在の日中関係

 

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